もっとも国産艦艇はすぐに完成しなかったため、1954年(昭和29年)5月14日に日米艦艇貸与協定が調印され、グリーブス級駆逐艦(あさかぜ型護衛艦)、フレッチャー級駆逐艦(ありあけ型護衛艦)、キャノン級護衛駆逐艦(あさひ型護衛艦)、ガトー級潜水艦(くろしお型潜水艦)などが貸与されることとなった。これらの貸与艦艇を受領したのは海上自衛隊になってからであるが、創設時の海上自衛隊の戦力の中核となり、事実上の海軍としての体勢を整えた。
航空機はまず最初に1953年(昭和28年)8月6日、洲崎ヘリポートでBell-47D ヘリコプター1号機を領収し、その後計4機を領収した。さらにS-51を3機、S-55を2機購入した。これらの回転翼機は館山航空隊に配備された。固定翼機についてはメンター練習機を購入し、鹿屋航空隊に配備された。
警備隊の船舶は国旗及び警備隊旗を掲揚することとなったが、警備隊旗は1952年(昭和27年)11月8日に制定され、自衛艦旗制定まで掲揚された。 第二復員局出身の山本善雄、吉田英三などの旧海軍軍人が主導して創設された経緯[8]から、人員も旧海軍軍人が大半を占め[9]、特に水雷、航海専攻者が多く任用された[10][注釈 3]。 警備官の階級は、その後の陸上自衛隊の自衛官(陸上自衛官)になる保安官の階級に対応しており、原則として「保安」の部分を「警備」に入れ換えたのみの差であるが、「保査」については「警査」と言い換えている。「警査」とは警察予備隊の警察官の階級名でもあった。 なお、警査は、陸上部隊の保査よりも、船舶の運用を担うためその養成に時間がかかることから、非任期制とされ、また三等警査という階級が設けられており階級面でも1つ多くなっていた。 また、昭和28年9月16日には術科教育のため、「警備隊術科学校」が設置された(後の海上自衛隊術科学校)。 警備官の階級分類階級名相当階級
発足時の編成(1952年8月1日時点[7])
第二幕僚監部<第二幕僚長> - 総務部・警備部・航路啓開部・経理補給部・技術部
横須賀地方隊
横須賀地方総監部(総務部・警備部・経理補給部・技術部)
西部航路啓開隊
呉航路啓開隊(掃海船14隻)
大阪航路啓開隊(掃海船6隻)
徳山航路啓開隊(掃海船1隻)
下関航路啓開隊(掃海船7隻)
佐世保航路啓開隊(掃海船5隻)
横須賀航路啓開隊(掃海船3隻)
函館航路啓開隊(掃海船3隻)
舞鶴地方隊
舞鶴地方総監部(総務部・警備部・経理補給部・技術部)
舞鶴航路啓開隊(掃海船2隻)
新潟航路啓開隊(掃海船2隻)
人事
海上警備官保安官海上自衛官
幹部警備官
(士官)(将官)第二幕僚長たる警備監警備監海上警備監保安監(甲)保安監(乙)海将
警備監補海上警備監補保安監補海将補
警備正
(佐官)一等警備正一等海上警備正一等保安正一等海佐
二等警備正二等海上警備正二等保安正二等海佐
三等警備正三等海上警備正三等保安正三等海佐
警備士
(尉官)一等警備士一等海上警備士一等保安士一等海尉
二等警備士二等海上警備士二等保安士二等海尉
三等警備士三等海上警備士三等保安士三等海尉
警備士補
(下士官)一等警備士補一等海上警備士補一等保安士補一等海曹
二等警備士補二等海上警備士補二等保安士補二等海曹
三等警備士補三等海上警備士補三等保安士補三等海曹
警査
(兵卒)警査長海上警備員長保査長海士長
一等警査一等海上警備員一等保査一等海士
二等警査二等海上警備員二等保査二等海士
三等警査三等海上警備員なし三等海士
この表では、各改組に際して当然に移行するものとされた相当階級を示してあるのであって、必ずしも現在の海上自衛官の階級の全てに対応するものではない(准海尉、海曹長に相当する警備官の階級はない。)。
第二幕僚長たる警備監(外国海軍の中将と同一のものを使用)と一般の警備監(金太線、金細線、金中線の配列のもの)とは、階級章が異なる[12]。また、長澤浩が警備監に昇任して第二幕僚副長に就任するまでの1952年8月1日から1953年10月16日の間、一般の警備監の階級章の者は空席であった。これは海上警備隊において海上警備監の定員が3名であったのに対し、海上警備隊副総監が空席であり、それを第二幕僚副長にまで引きずったことと、本来、海上警備監職であった横須賀地方監部長[13]に海上警備監補であった吉田英三が充てられたためである。
関連作品
『ゴジラ』(1954年)
ゴジラを攻撃する防衛隊のフリゲートの映像として警備隊のくす型フリゲートの記録映像が使用されている。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 2月以内の期間を定めて雇用される者、休職者及び非常勤の者を除く
^ 警察の補完組織だった警備隊が、国防を任務とする自衛隊になった際、新任務にふさわしい宣誓が求められた[5]。
^ 戦史研究家の吉田昭彦は「旧海軍で主流を占め、横暴を極めた「鉄砲屋」や「飛行機屋」と言われる、砲術、航空専攻の人々も排斥された」としているが[11]、実際は砲術、航空専攻者も任用されており、後に海上幕僚長となる庵原貢(砲術)、鮫島博一(航空)などの多くの幹部を輩出している。
出典^ 保安庁法(法律第二百六十五号・昭二七・七・三一)
^ 掃海OB等の集い 世話人会 (2013年9月30日). “航路啓開史” (PDF). 2013年10月1日時点の ⇒オリジナルよりアーカイブ。2013年3月13日閲覧。
^ 読売新聞戦後史班編「第2章 海上警備隊」『昭和戦後史「再軍備」の軌跡』読売新聞社、1981年、174-256頁。ASIN B000J7W6JM。
^ 香田洋二「国産護衛艦建造の歩み(第1回) - プレリュード(その1)」『世界の艦船』第771号、海人社、2013年1月、189-195頁、.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}NAID 40019496959。