警保局
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さらに翌1935年(昭和10年)には映画統制委員会の別働組織として大日本映画協会が設立された[1]

警保局長は警視総監内務次官と並んで内務省三役と言われ、退官後は約半数が貴族院勅選議員となった。大蔵省外務省などではこのようなことは滅多になかった。

太平洋戦争での日本の敗戦後、1947年(昭和22年)12月31日、内務省はGHQの指令により解体・廃止され、1948年(昭和23年)1月1日、内務省警保局は内事局第一局となる。

その後、旧警察法の制定により1948年(昭和23年)3月7日、内事局も廃止され、内事局第一局は国家地方警察本部となる。また、警察法全部改正(新警察法)により、1954年(昭和29年)7月1日、国家地方警察本部は警察庁となった。
歴代警保局長等
司法省警保頭(1872年 - 1873年)

1872年(明治5年)8月28日、司法省に警保寮を設置。

1872年(明治5年)9月2日 - 1873年(明治6年)11月10日 島本仲道

1873年(明治6年)11月10日 - 1873年(明治6年)12月5日 河野敏鎌

内務省警保頭(1874年 - 1876年)

1874年(明治7年)1月9日、警保寮を司法省から内務省に移管。

1874年(明治7年)1月29日 - 1876年(明治9年)
村田氏寿(1875年(明治9年)11月27日以前は警保権頭)

内務省警保局長(1876年 - 1877年)

1876年(明治9年)4月17日、警保寮を廃止し警保局を設置。

明治 9 年(1876.04)-
村田氏寿

警視局大警視(1877年 - 1880年)

1877年(明治10年)1月11日、警保局を廃止し警視局を設置。

(兼)
川路利良:1877年1月19日 - 1879年10月13日

(兼)大山巌:1879年10月16日 - 1880年2月28日

(代理)石井邦猷:1880年2月28日 - 1880年10月23日

(兼)樺山資紀:1880年10月23日 - 1881年1月14日

内務省警保局長詳細は「内務省警保局長」を参照
脚注[脚注の使い方]^ 警保局主導で設置、役員決まる『大阪毎日新聞』昭和11年12月3日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p352 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)

関連項目

日本における検閲

南波杢三郎

府県警察部

大日本警察の歌

外部リンク

「外事警察概況」デジタル復刻出版
(龍溪書舎)

参考文献

秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。










戦前の日本警察(1868年 - 1947年)

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