謝東閔
[Wikipedia|▼Menu]
双十節である1976年10月10日、省政府主席の謝東閔のもとに、台湾独立運動参与者である王幸男から爆弾が仕掛けられた郵便小包が届いた。開封した瞬間小包が爆発(中国語版)し、謝は左腕を負傷した。敗血症を引き起こす可能性があったことから、搬送先の病院で左腕は切断され、以降は義肢での生活を余儀なくされた。謝東閔は現在まで唯一の在任中暗殺未遂に遭った省主席である。

1978年から1984年まで、台湾出身者としては初の中華民国副総統を務めた。退任後は総統府資政(中国語版)に招聘された。

2001年1月、心筋梗塞により台北栄民総医院へ搬送された[6]。同年4月8日の午後11時40分、心筋梗塞に伴う上気道感染症で、外双渓(中国語版)至善路の自宅で死去[6]彰化県二水郷の謝増福公派下墓園に埋葬された。
中一中の罪人日本統治時代に建てられ、段校長時代に取り壊された旧台中一中校舎

謝が台湾省議会議長在任中の1969年中一中の校長であった段茂廷は、教室不足の解消を理由として、日本統治時代に建てられた赤レンガの2階建て校舎(中一中紅楼)を取り壊し、4階建てのコンクリート製新校舎を建築しようとしていた[7]。この計画は、中一中の教師、生徒、同窓生による激しい反発を引き起こしたため、段は省議会議長の謝に救援を要請した。自身も中一中の同窓生である謝はこれを快諾し、母校での講演で「舊的不去、新的不來」(古いものが去らなければ、新しいものは来ない)と述べ、旧校舎は取り壊されることになった。台湾省政府は迅速に取り壊しの資金割り当てを行い、旧校舎は1971年に完全に姿を消した。跡地には4階建てのコンクリート製校舎「荘敬楼」が、現在に至るまで建てられている[7]

しかしながら、築40年を超えた荘敬楼は老朽化が激しく、ひび割れや漏水が起こっている。2017年、当時の台中市長である林佳龍が紅楼の再建案を支持し、同窓会からも再建費用の寄付が持ち上がるなど、近年かつての校舎を懐かしむ声が増加し始めた。その背景には、同じく日本統治時代に建設され、現在でも台北市立建国高級中学校舎として機能している建国中学紅楼(中国語版)の存在がある。中華民国直轄市定古蹟である建国中学の同校舎を引き合いに、中一中の大きな損失と、台湾教育史の断裂を招いた「中一中の罪人」である段茂廷、謝東閔両者に対する非難は大きい[7]
教育への貢献

謝東閔は家族こそ国の基盤だと考えていたため、国家が繁栄し、国民が幸せでいるためには何よりも家庭が健全でなければならないと説いた。この考えに基づき、謝は体育専科学校、芸術専科学校、家事専科学校の3校を公立校として開設するよう、当時の副総統である陳誠に提案した。彼の提案は政府で採択され、1955年に国立芸術学校(現在の国立台湾芸術大学)が、1961年に省立体育専科学校(現在の国立台湾体育運動大学)が創設されたが、家事専科学校のみ政府での採択がなされず、公立校として開校される兆しが見えなかった。これを受け、謝は私立校として家事専科学校(後に家政専科学校へ改称)を開校する計画を立て[8]1957年に家政学校の創設を決定した。1958年3月26日、謝東閔は中華民国で初の家政学校である私立実践家政専科学校(現在の実践大学)を立ち上げた。

1984年、台北語文学院(中国語版)の名誉董事長に就任。彰化県田中鎮には、謝東閔の功績を称え、東閔と名付けられた通りが存在する。
旧家

謝東閔の旧家は、二水郷にある実践大学付属二水郷家政推広実験センターの北側に位置している[9]。もともとの住居は三合院(中国語版)造りであり、現在の実験センターの場所に建てられていた[9][3]。謝東閔の母が亡くなった際に、旧家は東護龍(東側の建物)を残して取り壊され、90度回転して現在の位置に移転された[9][3]。旧家の跡地には、「私立実践家政専科学校附設二水家政推広センター」が1972年に設立された[9][3]
家族

謝東閔の弟である謝敏初は、台湾青果運銷合作社総経理および理事主席を務めた。長子である謝孟雄は医師であり、第2回監察委員考試院典試委員、台北医学院校長、実践大学董事長などを歴任。孟雄の妻である林澄枝(中国語版)は、行政院文化建設委員会主委、国民党副主席などを歴任。三男の謝大立はデザイナーであり、実践大学媒体伝達設計学系の専任客員教授を務めている[10]
その他

1980、90年代の台湾では、国民党内に「八大老」と呼ばれる括りが存在した。主に謝東閔、黄少谷(中国語版)、倪文亜(中国語版)、李国鼎(中国語版)、?彦士、袁守謙(中国語版)、辜振甫などを「七大老」と称し、後に陳立夫を加えて八大老と呼ばれるようになった[11]

1990年中華民国総統選挙の際には、党内非主流派が後援する林洋港(中国語版)を蹴落とすため、李登輝を推す国民党主流派が八大老に働きかけ、林に総統選辞退を勧める圧力をかけようとする事件が起きた。
著作

『歸返:我家和我的故事』

『謝氏大族譜』-
民国62年(1973年)12月出版

脚注^國立臺灣師範大學?任校長國立臺灣師範大學數位校史館
^謝東閔任事用人別具風格--紀念謝求公百年冥誕兼述其二三事,中央研究院數位文化中心
^ a b c d e f 張錫池、張碧照 (2006-08). 《二八仔風華:光化村史》. 彰化縣文化局. pp. 頁150─159. .mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 986-00-1764-6 
^ 梅可望 (2012年9月30日). 古今人物的感情世界:華夏一百六十年指標人物心態管窺. 威秀資訊. p. 226. ISBN 9789862219904. "下面是節自《歸返》一書中謝先生對冒險赴祖國大陸的回憶:「民國十四年春天,我已十九?,決心前往祖國升學。……」在這種精神和決心之下,他義無反顧,從基隆搭船去日本門司,轉往上海,身上只有三百日圓可用。" 
^ a b 陳-{布}-雷等編著 (1978-06-01). 《?介石先生年表》. 台北: 傳記文學出版社 
^ a b “張院長弔?故總統府資政謝東閔 感念其一生為台灣建設史的縮影” (中国語). 90年度行政院即時新聞. 行政院新聞局. 2014年12月13日時点の ⇒オリジナルよりアーカイブ。2014年12月7日閲覧。
^ a b c “ ⇒台灣新創!中一中紅樓拆了47年 校友會預計募2億5千萬原地重建” (中国語). 民報 (2018年3月25日). 2018年3月26日閲覧。
^ 實踐五十年:實踐大學創校五十年校史特刊。頁13-15。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:31 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef