※ 女子柔道家の福田敬子は講道館の認定段位としては九段(2006年授与)であるが、2011年の夏に米国柔道連盟から独自の十段を授与されている[8]。 今日周知されているような体育としての柔道観、人間教育としての柔道観以上に、嘉納治五郎の柔道観は元々幅の広いものであった。嘉納は柔道修行の目的を「修心法」「体育法(練体法、鍛錬法とも言う)」「勝負法(護身法とも言う)」(時に「慰心法」を含む)とし、柔道修行の順序と目的について、上中下段の柔道の考えを設けて、最初に行う下段の柔道では、攻撃防御の方法を練習すること、中段の柔道では、修行を通して身体の鍛練と精神の修養をすること、上段の柔道では終極的な目的として下段・中段の柔道の修行で得た身体と精神の力(心身の力=能力・活力・精力)を最も有効に使用して、世を補益することを狙いとした[10]。武術としての柔術(勝負法)をベースに、体育的な方法としての乱取り及び形(体育法)、それらの修行を通しての強い精神性の獲得(修心法)を同時に狙いとしていた。 その一方で嘉納は武術としての柔道について「まず権威ある研究機関を作って我が国固有の武術を研究し、また広く日本以外の武術も及ぶ限り調査して最も進んだ武術を作り上げ、それを広くわが国民に教へることはもちろん、諸外国の人にも教へるつもりだ」との見解を述べており[11]、研究機関を作り世界中の武術を研究して最も進んだ武術を拵えたいとの考えも持っていた。 嘉納は柔道に柔術のもつ武術性を求めていたが、しかし勝負に効き目ある手(当身技)が危険であり教えることが難しいため、従来の柔術諸流派の修行法と同じ様に「専ら形に拠って練習」 しなければならぬとした。しかし形だけではなく、そこから先へと進めた、当て身を含む乱取りも工夫すべきという考えを嘉納は早くから持ち続けた。1889年の講演「柔道一班並二其教育上ノ価値」の中において、嘉納は当身を含み対処する柔道の「勝負法の乱取り」の可能性、構想について述べている。「初めから一種の約束を定めていき又打ったり突いたりする時は手袋の様なものをはめてすれば、勝負法の乱捕も随分できぬこともない。形ばかりでは真似事のやうで実地の練習はできないから、やはり一種の乱捕があったほうがよい。」とし勝負法の技を実演している。その際、勝負法の形のうちから簡単な技として5つほど、 を実演し、またその上に種々込み入った手があり大抵の場合に応ずることを目的とするものであることを説明する。 嘉納は古流柔術の定義について「無手或は短き武器を持って居る敵を攻撃し又は防御するの術」とし、柔道の修行・技術についても「その修行方法は攻撃防御の練習によって身体精神を鍛錬修養し斯道の真髄を体得することである」「攻撃防御の練習、柔道でいう攻撃は、便宜上、投、固、当の三種に分けることとしている。投とは場合場合でいろいろの動作をして対手を地に倒すことをいい、固とは絞業、関節業、抑業の区別はあるが、要するに対手の体躯、頸、四肢などに拘束を加えて動けなくしまたは苦痛に耐えられぬようにすることをいい、当とは手、足、頭、時には器物または武器をもって対手の身体の種々の部分に当て苦痛を感じしめ、または死に至らしめることをいうのである。そうして防御とはこれらの攻撃に対して己を全うするために施すいろいろの動作をいうのである。」[12] と述べている。柔道の当身の中に武器術、対武器術の概念を含むことを述べている。 嘉納は理想の柔道教師の条件として、「無手は勿論、棒、剣を使う術においても攻撃防御の術に熟練し、勝負上の理論も心得、同時に体育家として必要な知識を有し、且つその方法にも修熟し、また教育家として必要な道徳教育の理論にも通暁し、訓練の方法にも達し、のみならず柔道の原理を社会生活に応用する上において精深なる知識を有し、方法をわきまえている」[13] 人物としている。嘉納の理想としての柔道の攻撃防御の修行には無手のみではなく武器術を含むものであったことが窺える。 また嘉納は1926年(大正15年)、当時の機関誌「作興」に、「武術としての柔道は無手術はもちろん、剣術、棒術、槍術、弓術、薙刀その他あらゆる武術を包含する」と書き、「剣術、棒術はいずれも価値あるものと認むるが、剣術の試合の練習はすでに世間に普及しているから、差し当たり無手術の他には剣術および棒術の形をするつもりである」と述べている。[14][15] 嘉納はそのような修行形態を再試行する目的で、1928年(昭和3年)に講道館内に「古武道研究会」を立ち上げ、柔、剣、棒、杖術等の古い武術の保存と新たな武術の創作と柔道としての体系化への研究に進んでいる。 参加メンバーの望月稔は、古武道研究会について「武術が殺傷の技術であったのに対し、武道は青少年の体育、徳育、知育に志向した教育手段として近代化されたものである。従って技術的には殺傷の技としては有効であっても、体育的には不適当と見做された多くの技が全て淘汰されてしまった。嘉納治五郎先生は大正の末期から、之に対する再検討に入られて、当時既に消滅に瀕していた古流武術の保存に力を入れられたのである」[16] と述べている。 古武道研究会が設立されると共に、「一般の者が武器を携えていないような時代では、無手でできる武術が一番価値があるが、杖やステッキや傘などの得られやすい物を武器として攻撃防御できることが次に価値がある」という嘉納治五郎の考えのもと、講道館棒術が講道館において学ばれる。香取神道流の玉井幸平、椎名市蔵、伊藤種吉、久保木惣左衛門や、神道夢想流の清水隆次などを聘し師とし体系化に臨んだ。嘉納は講道館柔道の一部門として講道館棒術の大成、広く全世界への普及を考えていた。[17] 嘉納治五郎の死去(1938年5月4日)後、嘉納の甥であり、海軍軍人でもあった南郷次郎が二代目講道館館長に就任(1938-1946年)した。教育者であった嘉納の理想としてあった武術と体育と教育と社会貢献の融合に対して、南郷次郎は、特に嘉納の武術論を継承した。生前、嘉納は武術としての柔道という観点でボクシング、唐手、合気柔術、棒術、レスリングといった多くの武術を研究しその必要性を説き、講道館の創立50周年を迎えた1932年(昭和7年)には以下のように述べている。 「柔道はその本来の目的から見れば、道場に於ける乱取の練習のみを以て、満足すべきものでないといふことに鑑み、形の研究や練習に一層力を用ひ、棒術や剣術も研究し、外来のレスリングやボキシングにも及ぼし、それ等の改良を図ることに努めなければならぬ」」[18]。 南郷の武道技術論においては、いずれも柔道の武術性が重視されているが、そこには南郷自身が軍人としてあったアイデンティティに加え、当時日本における戦時体制下の緊張感があった。 南郷館長就任披露晩餐会において南郷次郎は「空想に非ざる近き理想」を語り、そこでは柔道の将来に対する抱負を7点次のように挙げた。 また、故嘉納治五郎の慰霊祭での奉納演武が行われた際には、講道館において制定されていた形の演武に加えて、1939年(昭和14年)に行われた嘉納の没後一年祭においては嘉納生前から行われていた講道館棒術を、また1941年(昭和16年)の三年祭では28組の他流派の演武、1943年(昭和18年)の五年祭では6組の他流派の演武が行われている。嘉納が生前行っていた各種武術の研究は、その後も講道館で継続された。 戦時期の1939年(昭和14年)12月設置の武道振興委員会(政府諮問機関)が、1940年(昭和15年)7月30日に提出した答申では、武道の戦技化が謳われた。南郷は武道・武術の国家統制からの民間の武道団体の自立を主張しながらも、それに対応する形で南郷の指示により同年中には講道館に「形研究会」が開設かれた。そこでは柔道だけでなく様々な武術の専門家22名が委員として招かれた。接近した間合における柔道の武術性に自信を持つ南郷は、離隔の間合の技術も研究すべきと考え、近い間合での乱取、離隔の間合での形を不偏に稽古すべきと主張した。 南郷は、柔道の技術体系が「対手に近接して之れを制御する武術であり、一度対手に近接することを得れば、柔道ほど有効にして且つ優秀なる武術はないと断言することが出来る」と、互いに組み付くことが可能な接近した間合での柔道の武術としての優秀性に自信を示す。
柔道殿堂
十段
安部一郎[9]
飯塚国三郎
磯貝一
大澤慶己[9]
岡野好太郎
栗原民雄
小谷澄之
佐村嘉一郎
正力松太郎
醍醐敏郎[9]
田畑昇太郎
永岡秀一
中野正三
三船久蔵
山下義韶
九段
徳三宝
八段
横山作次郎
七段
富田常次郎
宗像逸郎
六段
西郷四郎
広瀬武夫
湯浅竹次郎
柔道技法の思想と歴史
武術としての柔道(勝負法)
勝負法の乱取り
対手が右の手で打ってくるのを捌き対処し腰で投げる。
対手が右の手で打ってくるのを捌き対処しその手先を捕り捩り対手を縛る。
対手が突いてくるのを捌き対処し対手が引いたのを入り込んで咽喉を絞める。
対手が横から打ってくるのを捌き対処し咽喉を絞めるなり急所に当てなりする。
対手が蹴ってくるのを足先を捕り捌き対処し投げる。または固める。
古武道研究会
講道館棒術
二代目講道館館長南郷次郎の理想
空想に非ざる近き理想
「柔道による精神教育」
「最優秀者、最強者の養成」
「少年柔道の向上と普及」
「講道館柔道以外の各種徒手術の長所を包容研究する事」
「相当離隔せる位置より相手を制するに至るまでの技能を研究錬磨」すること
「近代の武器、服装に対応する柔道の技を研究する事」
「楽な気持で柔道を楽しみたいと考へられる人々」のために「講道館内に或はクラブを設け」ること
故嘉納治五郎慰霊祭での奉納演武
武道振興委員会の答申と形研究会
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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