講談倶楽部
[Wikipedia|▼Menu]
将棋でも、講談社の企画として、当時の6人の八段を相互に対戦させる、八段総出勝継ぎ大棋戦も、新聞社には出来ない企画として1927年に開催されて誌上掲載された。土居市太郎大崎熊雄金易二郎花田長太郎木村義雄木見金治郎が出場し、対局料75円も破格だった。この後読売新聞でも同種の棋戦が行われ、講談倶楽部でも1938年に再度八段戦を開催、続いて2次の勝抜き戦も行われた。
時局色

1932年4月号では特集で「愛国小説軍事美談集」(三上於菟吉「哭くな戦友」など4編)を組むなど、時局色が投影されるようになる。翌5月号では陸海軍将校による「戦争ロマンス大座談会」、1933年5月号で「愛国読物大特集」、6月号で「従軍記者大座談会」など。『少年倶楽部』で名声を上げた山中峯太郎も、1932年から頻繁に掲載され、兵隊小説「団子二等兵」も連載した。

1941年には陸軍省から、木村毅大山巌元帥を書いて欲しいとの要請により、「大山元帥」を連載した。戦局が進むに連れて言論統制が強まり、1940年の川口松太郎「女浪曲師」は軍部の圧力で連載を打ち切られ、終戦の1945年には10万部程度に落ち、ページ数も32ページとなる。
戦後

CIEから戦争協力雑誌として「ワースト・マガジン」とされるなど、時代小説は民主化に逆行するものという第二次世界大戦後の風潮にあって、1946年2月号で休刊した。講談社では『講談倶楽部』の復刊に踏み切れないでいたが、『冨士』『面白倶楽部』などの売れ行きのよさを見て、1949年1月号(1948年11月発行)から復刊した。山手樹一郎が覆面で書いた「新篇八犬伝」連載が人気を呼んだ他、バラエティーに富んだ娯楽雑誌として再スタートした。海音寺潮五郎山本周五郎角田喜久雄らの戦前からの時代小説作家に加え、山田風太郎鳴山草平宮本幹也などの新しい作家が執筆した。戦後創刊された『小説新潮』や、戦前からの『オール讀物』などの中間小説路線に時代の人気は移っていく中、1952年には講談倶楽部賞を創設、第2回に春桂太(伊藤桂一)、第8回に司馬遼太郎がデビュー、また第1回の予選通過者には田辺聖子がいた。

しかし時流により、講談社は『少年倶楽部』『少女倶楽部』とともに1962年11月で『講談倶楽部』を廃刊し、12月から中間小説誌『小説現代』を創刊する。これが、既に1960年に廃刊されていた光文社『面白倶楽部』などを含めた、いわゆる倶楽部雑誌の最後となった。廃刊に際し尾崎士郎朝日新聞に掲載した一文では、「ある時期、たしかに「講談社文化」の時代的影響は、批判の是非いかんにかかわらず、重要な意味を残している。その根柢を形成したものが「講談倶楽部」であったことだけは絶対に疑う余地もあるまい。」と述べられた。
脚注



参考文献

尾崎秀樹『殺しの美学 チャンバラ剣豪列伝』三一書房 1961年(旺文社 1985年)

尾崎秀樹『大衆文学論』勁草書房 1965年

岡田貞三郎、真鍋元之『大衆文学夜話』青蛙社 1971年

尾崎秀樹、宗武朝子『雑誌の時代 その興亡のドラマ』主婦の友社 1979年

大村彦次郎『文壇うたかた物語』筑摩書房 1995年

大村彦次郎『文壇挽歌物語』筑摩書房 2001年

大村彦次郎『時代小説盛衰史』筑摩書房 2012年

典拠管理データベース

VIAF


記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:19 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef