唐律でも養老律でも、叛を上道(実行)した場合は主犯・従犯ともに斬とされた。謀叛にとどまる場合、主犯は絞、従犯は流罪になった。唐律で流三千里
、養老律では遠流である。いずれも指導者だけが罪とされ、率いられて叛いた者は罪とされない。外国ではなく山沢に逃亡し(亡命山沢)、官吏に呼ばれても帰らないときには、謀叛と同じ扱いになった。つまり、首謀者のみ絞、従犯は流刑である。連れ戻しに来た軍隊に対して抵抗したときには、叛の上道と同じ扱いで、主犯・従犯ともに斬となった。率いられた者が罪とされないのは同様である。
縁座(親族の連座)は、実行時にのみ発生し、率いた人数と武力行使の程度によって3段階に分かれた。もっとも重いのは、城を攻略してそれを拒守した場合で、謀反と同じになる。これは、領土を実際に奪った罪を特に重くした区分である。中間は、攻撃・虜掠をしたか、攻撃の有無にかかわらず規定人数(唐律では100人、養老律では10人)以上を率いて叛いたものの、城を拒守することまではしなかった場合である。軽いのは、規定人数未満を率い、害を加えなかった場合である。いずれにせよ本人は死刑になるが、縁座には以下のような細かな違いが生じる。
唐律で謀反と同じになると、父と年16以上の子(子は息子のこと。以下同じ)が絞になり、年15以下の子、母女(母と娘)、妻妾、子の妻妾、祖孫(祖父母と孫)、兄弟、部曲(隷属民)、資財、田宅が没官になった。没官は官への没収で、人について言えば官戸にすることである。伯叔父、兄弟の子は流三千里(三千里の流刑)になった。中間の場合には、父母、妻、子が流三千里になった。軽い場合には、妻と子(息子)が流二千里になった。
養老律で謀反と同じになると、父子、家人(唐律の部曲にあたる隷属民)、資財、田宅が没官となった。祖孫・兄弟は遠流である。中間の場合は父と息子が遠流、軽い場合には子が中流であった。日本のほうが縁座の範囲が狭く軽い。
日本における実情「謀反#日本における「謀反」と「謀叛」」も参照
日本では外敵通謀と言う意味での謀叛はめったに起きなかった。8世紀初めには、慶雲4年(707年)、和銅元年(708年)、養老元年(717年)と、100日以内に出頭すれば亡命山沢の罪を赦すという詔が出たが、それは大赦の一部で唐の詔を引き写したものである。平安時代後期以降は、謀反と謀叛の区別はなくなり、両方とも主君や君主への敵対を指すようになった。
なお、朝廷の許しを得ずに外国へ出国することは禁じられていたこと(いわゆる「渡海制」)が知られているが、異説として外敵通謀の意図を有していなくても、密貿易・留学その他の理由によって唐・宋や新羅・渤海・高麗などへ出国することも謀叛として処罰されたとする説もある[2]。ただし、これについては異論もある。
脚注[脚注の使い方]^ 本節と次節「量刑」については、『養老律』の「賊盗律」と『唐律疏義』の「賊盗律」による。
^ 榎本淳一「律令国家の対外方針と〈渡海制〉」(『唐王朝と古代日本』、吉川弘文館、2008年(平成20年)(原論文:1991年(平成3年)))
参考文献
井上光貞・関晃・土田直鎮・青木和夫校注『律令』(岩波書店・日本思想大系)、新装版1994年。初版1976年。ISBN 4-00-003751-X。