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たとえば、伊耶那美命伊邪那岐命の神名は、賀茂真淵・宣長[8] の説に従い「伊耶(イザ)」を「誘語(いざなふことば)」の意味、すなわち国産みのための遘合を互いに誘ったことから呼んだものとすれば、これは明らかに後から奉られた尊号であって、実名ではないことになる[9]

実名敬避俗の発想から貴人の諱を忌み避けることを「避諱(ひき)」という。特に天子皇帝)の諱は厳重に避けられ、以下の公文書にもいっさい用いられず、同じ字を使った臣下や地名・官職名は改名させられたり、漢字の末画を欠かせるなどのあらゆる手を尽くし使用を認めなかった。例えば、の初代皇帝劉邦の諱は「邦」であったため、漢代には「邦」の字をまったく使用できなくなった。以後「国」の字を使うことが一般化し、戦国時代に「相邦」と呼ばれていた役職は相国となった。避諱の実際は時代によって異なるが、多くは王朝の初代、現皇帝から8代前までさかのぼる歴代の皇帝の諱を避けた。また皇帝のほか、自分の親の名も避諱の対象となった(例えば、杜甫はたくさんの詩を残したが、父の名である「閑」という字はすべての作品で使用しなかった)。(詳しくは避諱の項を参照。)

日本では親の実名を避ける例はほとんど見られない。しかし、中国の強い影響下にある桓武天皇の時代に編纂された正史続日本紀』において、天皇の父である光仁天皇の即位前の記事に関しては、諱である「白壁王」という表記を避けて(大納言)「諱」と記載されている。

江戸時代中ごろ以降は、将軍家の当主と家族の諱と名のりは実名での使用を避ける傾向があり、諸藩においては将軍家に加えて藩主とその家族の実名および名のりを避けた(後述する将軍から大名家当主・世子等への偏諱授与の場合を除く)。この場合は、将軍家や藩主家の娘の名も使用を避ける対象であった。

具体例としては、徳川綱吉の時代に綱吉の娘、鶴姫と同じ「つる」という名を変えた例や、長州藩毛利重就が当初「しげなり」という名のりだったのを、徳川家斉が将軍になってからは「しげたか」と改めた例がある。また薩摩藩では、将軍家の当主と正室や子女の諱、及び藩主とその正室や子女の実名および名のりを避けるように藩法で規定していたことが、「薩藩政要録」や「三州御治世要覧」から分かる。その他、「仙台市史 通史4 近世2」によれば、伊達宗村徳川吉宗の養女利根姫(雲松院)が嫁ぐと、領内での「とね」という女性名が禁止され、武家・庶民の別なく「とね」の名を持つ女性の改名が令達されている。

安政5年10月、松平茂昭将軍家茂の偏諱を賜って名を直廉から茂昭と改めた。この年以後、福井藩民の名における茂の字は忌諱によってすべて藻と改められ、人別張等には藻左衛門・藻兵衛等と記されている。

薩摩藩ではまた、将軍家及び藩主家の実名や名のりの禁止は、将軍家や藩主家の一族が死去もしくは結婚などで家を出た場合に解除されたことが「鹿児島県史料」で散見される。
漢字圏での呼び名

中国を始めとする東アジアの漢字圏で、諱を避けるために用いられた代替的な呼称を以下に列挙する。

は元々中国の習慣で、成人した人間の呼び名として用いられた。

姓 字諱・実名国・地域
陶 淵明潜中国
伍 子胥員中国
趙 孝直光祖朝鮮半島
金 立之富軾朝鮮半島
荻生 茂卿(もけい)茂卿(しげのり)日本
宇野 士新鼎日本

文人・知識人が創作を発表する際に用いた筆名である。ひとりの人物が複数の号を持つこともある。

姓 号他の号諱・実名国・地域
蘇 東坡東坡居士軾中国
孫 中山日新・逸仙文中国
李 栗谷-珥朝鮮半島
許 蘭雪軒蘭雪楚姫朝鮮半島
阮 抑斎-?ベトナム
阮 清軒-攸ベトナム
新井 白石-君美日本
吉田 松陰二十一回猛士矩方日本
平山 行蔵運籌真人など多数潜日本

王・帝や領主などが、死後に贈られる名がである。

姓 諡諱・実名国・地域
諸葛 忠武侯亮中国
王 文公安石中国
李 忠武公舜臣朝鮮半島
河 文孝公演朝鮮半島
徳川 義公光圀日本
伊達 貞山公政宗日本

官名

官職についている(いた)人物をその官名で呼ぶこともあった。日本でも同様の慣習があったが、朝廷が授けた官名そのままではなく唐名を呼び名とすることも多かった。

姓 官名(唐)官名(和)諱・実名国・地域
? 中散-康中国
杜 工部-甫中国
李 相国宰相奎報朝鮮半島
-伴 大納言善男日本
平 相国太政大臣清盛日本
徳川 内府内大臣家康日本

また中国でいう刺史のような地方長官の場合、治める土地の名で呼ばれることもあった。

姓 地名官位諱・実名国・地域
劉 豫州豫州刺史備中国
柳 柳州柳州刺史宗元中国
勝 安房従五位下安房守義邦 → 安芳日本
小堀 遠州従五位下遠江守政一日本

ただし中世以降の日本の場合、任官されていない百官名受領名を好き勝手に自称する武士もいるため、その呼び名が実際の官職であるか単なる自称であるかは検討を要する。例えば織田信長は朝廷から右大臣に任ぜられているため、織田「右府」(右大臣の唐名)という呼び名は実際の官名に沿ったものである。しかし一般に知られる織田「上総介」は、いわゆる百官名であり全くの自称である。

左衛門右衛門兵衛といった官名は頻繁に使われたため、元は官名であったことすら忘れ去られ、兵農分離以降も平民の名前として一般的に使われた。


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