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法然東晋慧遠のように、異なる諡号を一人に何度も贈る場合が稀にある[11]

日本では明治時代には「大師号」「国師号」の賜与について、明治16年(1883年)に「大師国師号賜与内規」が定められた。しかしこれも将来不要になると明治20年(1887年)に廃止された。その後はこれを前例にして申請があれば慣習や皇室との関りを考慮して賜与されている[12]
諡字による諡号の意味

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出典検索?: "諡" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2018年12月)

古代の天皇の漢風諡号については、光仁天皇光孝天皇以外には選定に関する明確な史料が存在せず[13][注釈 9]、様々憶測に基づく説が唱えられている。
徳字諡号

天皇の諡号に「徳」字が使われたのは、孝謙天皇が譲位した際に、淳仁天皇より「宝字称徳孝謙皇帝」の尊号が贈られたことを嚆矢とする。重祚後の孝謙を「称徳」と呼ぶのはこれに由来する。『日本書紀』の諸天皇の漢風諡号は淳仁天皇の時代に淡海三船により一括選定されたため、懿徳天皇仁徳天皇孝徳天皇に諡号が贈られたのはこの時代である。仁徳天皇・孝徳天皇については事績が伝わっているが、懿徳天皇についてはほとんど事績が伝わっていない。いずれも諡号が選定された理由は不明である。森?外は『帝謚考』において複数の出典となりうる漢籍を上げているが、特定は行っていない。55代文徳天皇についても諡号が選定された理由は明確ではなく、森?外も選定理由を考えることはできないとしている。

保元の乱で流罪となった75代崇徳天皇は当初讃岐院という追号で呼ばれていた。しかし、安元3年7月29日にはこれを改め「崇徳院」の追号が贈られた。崇徳を提案したのは藤原永範であり、『通典』を出典としている[15]。『百錬抄』によれば、81代安徳天皇壇ノ浦の戦いで崩御した際には、非命に倒れた天皇に対し、「或人」が怨霊となってしまった前例を踏まえて、慈仁を施すべきであるということで「安徳」の諡号が贈られた。撰進を行ったのは九条兼実であり[16]、「或人」は崇徳を指すものと見られる[17]。延応元年(1239年)、承久の乱で敗れた82代後鳥羽天皇隠岐島で崩御した際には、菅原為長の選進により「崇徳院」の例に習って「顕徳院」の諡号が贈られた[18]。しかし仁治3年(1242年)7月8日には、「後鳥羽院」の追号が贈られた。宣旨では「顕徳院」の号が廃されたわけではなく、重ねて追号が贈られた理由は明らかになっていない[19]。建長元年(1249年)7月20日には、佐渡院と呼ばれていた順徳天皇に順徳院と諡された。

文明2年(1470年)12月27日には後花園法皇が崩御し、当初「後文徳院」の追号が贈られた。しかし「諡号に『後』の字を加える(加後号)例はない」という一条兼良の反対により追号を改めることとなり、結果として「後花園院」の追号が贈られている。この際「後文徳」を推した勧修寺教秀三条公敦といった公家らは、「文道再興の聖徳」「曜徳」「文徳の治世は盛んであった」など称賛する語として用いている[20]
光字諡号

「光」‐『諡法解』に「能紹前業曰光(先人の業を受け継いだ場合は光と曰ふ)」と記されている。ここから派生して傍系から出て皇位を継承した事を指している。中国の
後漢光武帝になぞらえて、「光」の字を贈ることがある。

49代光仁、58代光孝、119代光格の3人の天皇は、いずれも先代から見て傍系の出身である。ちなみに、光孝天皇の次の宇多天皇から、光格天皇の前の後桃園天皇まで、明治維新後に追諡された天皇を除いて、諡号を贈られた天皇はいない。

南北朝時代北朝の天皇は、遺諡によって「光」の字を含んだ追号を持つ。例外である後円融天皇は、平安時代における円融天皇の加後号を遺諡としているが、理由は特に示されていない[21]。ただし「光厳」「光明」は院号(居住していた寺の名前)からとられた追号であって漢風諡号ではない。崇光天皇については理由は不明である[22]。また、南北朝合一時の100代後小松天皇も、光孝天皇の異称「小松天皇」の加後号を遺諡としている。

101代称光天皇は、称徳天皇と光仁天皇の両者から1字ずつ取った漢風追号である[23]


武字諡号

中国では周の武王以来[注釈 10]、王朝初代の王や皇帝に「武」の字を贈る場合があり、日本の神武天皇もこれに合致する。井沢元彦天智天皇の諡号は、殷の紂王が焼身自殺した際に携えていた宝石:「天智玉」に由来し、一方で天武天皇の諡号は周の武王を意識したものであり、天武天皇が自らの行為を放伐と認識していた事を意味するとしている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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