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良い実績のある皇帝のほかに、夭逝した皇帝には、それを悼む沖帝殤帝など平諡が贈られた。悪諡を贈られた著名な例が隋の煬帝であるが、実際には少ない。悪諡は第一印象が悪いので、悪諡を使うことを避ける傾向もあり、代わりに強いポジティブな感情の意味を含まない美謚、あるいは平謚を使って業績が悪い皇帝を評価する[4]。したがって、ある美諡と平謚も実際に皇帝を婉曲に批判している意味を持つ。例えば、無能で政務を執り行うことが出来なかった皇帝に対して恵帝の美謚もしくは懐帝愍帝の平諡が贈られた[5]。また王朝最後の「末代皇帝」に対して恭順の意を込めて恭帝の美諡が贈られた。

二文字の諡号の場合には、美諡と悪諡(または平諡)の並び称は許可されている(武霊王ほか)。前漢、後漢の2代目以後の皇帝は一貫して「孝○皇帝」の諡が贈られたが、この「孝」は実際の意味がないので、一般的には省略される(前漢第7代の孝武皇帝→武帝、ほか)。

君主には必ずしも諡号があるとは限らない。後継者の都合によって「暴君」もしくは不適格とされた君主は死後、諸侯王ないし諸侯扱い、さらには庶民に降格されたり(例:高貴郷公南朝斉東昏侯海陵王→廃帝海陵庶人、ほか)、在位そのものが否定される場合(前漢の少帝弘、唐の殤帝重茂、明の建文帝ほか)があった。

帝王の諡号は次期帝王と礼部の官僚によって共に選定された。言いかえれば、当代の皇帝は自分の諡を知ることは不可能である。もちろん皇帝自らが諡号と廟号を決めることも許されない。曹叡は悪諡を避けるため生前に自ら明帝の諡号と烈祖の廟号を定めていたのが唯一の例であり、当たり前のように、大きな批判を浴びている。一方、日本では遺詔によって追号を決めた天皇が多く存在する(後述)。
廟号について詳細は「廟号」を参照

一族の祖、王朝の初代や再興を遂げた皇帝には「某祖」、その他の皇帝たちで特に称揚される者には「某宗」の廟号が奉られた。例えば、前漢の高帝劉邦は初代皇帝なので廟号を「太祖」(太祖高皇帝の略で、『史記』以来「高祖」と一般に呼ばれる)、漢の再興を果たした後漢光武帝は廟号を「世祖」とされ、それ以外の漢代の皇帝には「某宗」という廟号を贈られた者がいた。の初代ヌルハチは「太祖高皇帝」、初めて中原を支配した第3代順治帝は「世祖章皇帝」、その子で賢君の誉れ高かった康熙帝は「聖祖仁皇帝」とされ、一代三祖となっている。北魏ではさらに一代五祖となっている。ちなみに、日本でも「皇祖皇宗」という表現が用いられる(教育勅語玉音放送など)。廃帝や末帝には廟号が贈られなかった。廟号を得ることは、太廟(皇室の祭祀所)に位牌が祀られることを意味する。一つの王朝が滅亡すればその王統の祭祀をする者もいなくなるのであり、廟号自体に意味がなくなってしまうゆえである。

上述の通り、以降は、諡号の形骸化のため廟号は諡号に代わって君主の生前の業績を評価する。太祖太宗高宗中宗世宗を除いて他の廟号は主な『逸周書』の「諡法解」を参照した。上記の謚号のように、一部の廟号は微妙な意味を持つことがある。皇帝個人の生涯の角度から、在位期が短く影響力のない皇帝は穆宗という廟号を贈られた。都から逃亡の経歴を持つ皇帝は徳宗という廟号を贈られた。さらに、婉曲な批判に用いられていた。著名な例は遊楽に耽って危うく国を傾けそうになった北宋徽宗(実際に亡国)である[注釈 2]。その他、一見美しい意味の廟号文宗英宗神宗は、たいてい暗君の称号に使われている。廟号と諡号は使い方が異なるので注意。同じ「武」の諡字が贈られ、「武帝」が賛辞に使用されている一方、「武宗」は遊興にふけった暗君の廟号として使用された。
后妃の諡

后妃たちに諡が見られるようになるのは前漢からであるが、この時代は皇后であっても諡のない女性も多い。気をつけるべきなのは、史書における后妃たちの表記では、姓や自身の諡の前に、必ず配偶者である皇帝の諡を冠していることである。

たとえば、前漢の武帝が寵愛した李夫人は、『史記』において「孝武李夫人」と記される。この場合「孝武」とは武帝(孝武皇帝)のことであり、李夫人の諡ではない。訓ずる場合は「孝武帝の李夫人」と読む。一方、武帝の曾孫・宣帝の皇后である許平君は「孝宣恭哀許皇后」と記される。この場合「孝宣」が夫帝の諡で「恭哀」は皇后自身の諡となり、「孝宣帝の恭哀許皇后」と訓ずる。

後漢になると、皇后(贈号も含む)には特殊な場合を除いて全て諡され、一部の后たちにも諡されるようになるが、基本的な表記は同じである。例えば、魏の文帝曹丕の皇后・郭皇后は諡が「徳」であるので「文徳郭皇后」と記する。曹丕の側室で曹叡の生母の甄皇后(贈号)諡を「昭」というので『魏志』における表記は「文昭甄皇后」、また「文」は文帝のことであり、皇后たちの諡ではない。「景懐夏侯皇后」「景献羊皇后」とあれば、それは「景帝の配偶者」という意味で「景」と付くのであり、彼女たちの直接の諡ではないのである。

皇后はほとんど美諡または平諡に贈られた。悪諡を贈られためずらしい例が北魏孝文幽皇后である。また、後漢の安思閻皇后桓思竇皇后霊思何皇后はみんな「思」の平諡に贈られたが、けなす意味が隠されている。

唐以降、皇帝の諡そのものが長くなると、后妃たちの諡も上記の法則を外れることになる。唐、宋代は2?4字であったが、明・清代には皇帝と同じく20字近い長さの諡が贈られた。どの時代も、皇后と皇妃では諡の文字数に差異があることが共通する。
臣下の諡

家臣などに対し、死後に生前より上位の爵位号を贈ることを爵諡という。たとえば関羽は死後、軍神(関帝)として祀られた際、後世の歴代の王朝から贈られている。死後40年後景耀3年(260年)蜀漢劉禅から前将軍・壮繆侯を贈られ、以降、北宋の徽宗から崇寧に忠恵公、大観に武安王、宣和に義勇武安王、南宋高宗から建炎に壮繆義勇王、孝宗から淳熙に壮繆義勇英済王、トク・テムルから天暦に顕霊義勇武安英済王、成化帝から成化に壮繆義勇武安顕霊英済王といった具合である[7]


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