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なお、『神皇正統記』によれば、後醍醐天皇南朝によって天皇号を贈られたとされているが、北朝の系統である明治以前の朝廷がこれを認めずに「後醍醐院」と称したことは、江戸時代の『雲上明鑑』『雲上明覧』の歴代天皇欄より知ることが出来る[8]。もっとも、「院号」は天皇以外の者でも没後に用いることが出来る称号であるため、江戸時代後期には中井竹山(『草茅危言』)や徳川斉昭によって批判され、諡号復活論へと導かれることとなる[9]

また、遺詔によって自ら決める追号を遺諡と言い、大治4年(1129年)7月の白河院を初めとして、著名な例だけでも後嵯峨院後醍醐天皇後小松院後水尾院などの諸帝がおり、全部で15人いる。特に鎌倉後期の後嵯峨院から後醍醐天皇までのあいだにおいて、伏見院と後二条院を除く7人の天皇が自ら追号を決めており、遺諡がこの時期は主流であった[10]

私的性質が強い追号は天皇のみならず公武の臣下にも多く、邸宅の号や縁の地をもって「〇〇殿」と称するのは天皇の場合と同趣である。

諡号献呈は時代がはるかに下った江戸後期に、119代光格天皇によって復活し、この時に「天皇号」も復活した。以後、仁孝天皇孝明天皇の2代を経て、明治一世一元導入と共に元号を以って帝号(追号)とする事が昭和天皇まで続いている。また、大正14年(1925年)には追号における院号を全て廃止して「天皇号」に統一した。
后・妃の諡号

これに対して后妃の諡号は、光明皇后に贈られた「天平応真仁正皇太后」(略称:仁正皇太后)は一般的に使われず、上代末頃にはすでに見られなくなり、代わって生前から使われる女院号が盛んに宣下された。明治時代に至り、女院号の廃止を承けて后妃にも諡号が奉られるようになる。以来、孝明天皇の女御英照皇太后」、明治天皇皇后昭憲皇太后」、大正天皇の皇后「貞明皇后」、昭和天皇の皇后「香淳皇后」の4人が追諡を受けている。

なお追諡における「皇太后号」「皇后号」については記事「昭憲皇太后」の「追号について」の項目も参照されたい。
臣下の諡

臣下に賜る諡としては、壬申の乱で挙兵した天武天皇伊勢国で迎えた国司三輪子首が4年後に没した時「大三輪真上田迎君」と諡されたのが嚆矢である。次いで右大臣在任中に没し、40年後に贈られた藤原不比等(淡海公)がおり(正史以外で「文忠公」を記す史料もある)、その詔勅では不比等を太公に擬している[注釈 8]。後の世には摂関太政大臣を務めて在俗のまま没した者に限って漢風諡号と国公が贈られ、貞観14年(872年)9月4日の藤原良房(忠仁公・美濃公)をはじめ、摂関期に9例を数えた。

氏名漢風諡号国公(国名、国の遠近・等級)
藤原不比等淡海公(近江国、近国・大国)
藤原良房忠仁公美濃公(美濃国、近国・上国)
藤原基経昭宣公越前公(越前国、中国・大国)
藤原忠平貞信公信濃公(信濃国、中国・上国)
藤原実頼清慎公尾張公(尾張国、近国・上国)
藤原伊尹謙徳公三河公(三河国、近国・上国)
藤原兼通忠義公遠江公(遠江国、中国・上国)
藤原頼忠廉義公駿河公(駿河国、中国・上国)
藤原為光恒徳公相模公(相模国、遠国・上国)
藤原公季仁義公甲斐公(甲斐国、中国・上国)

また江戸時代には朱子学などの影響で武家、特に大名の間でも諡を贈る習慣が生まれた。尾張藩水戸藩では歴代藩主に漢風の諡号が贈られており、特に水戸藩の徳川光圀に贈った「義公」、徳川斉昭に贈った「烈公」などが有名である。
僧侶の諡

の諡号は、北魏法果が胡霊公と追贈されたのが初めてである[11]。日本では平安時代から実例があり[11]清和天皇に素真、最澄に伝教、円仁に慈覚の大師号が初めて贈られ、後には国師号、菩薩号なども諡として併せて贈られている[要出典]。法然東晋慧遠のように、異なる諡号を一人に何度も贈る場合が稀にある[11]

日本では明治時代には「大師号」「国師号」の賜与について、明治16年(1883年)に「大師国師号賜与内規」が定められた。しかしこれも将来不要になると明治20年(1887年)に廃止された。その後はこれを前例にして申請があれば慣習や皇室との関りを考慮して賜与されている[12]


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