漢風諡号の方は奈良時代中期の官職の唐風改称に伴って導入され、中国とほぼ同様、生時の行いを評して、「諡法解」の定義などによって選定された。諡を撰して奏上するのは明経道を学んだ明経博士や大外記などの儒家である。
ただし、日本では孝霊天皇を例外として悪諡は適用しなかった。
鎌倉時代に成立した『日本書紀』の注釈書『釈日本紀』に引用された元慶?承平年間の「私記」に、「師説」として初代神武以下の諡号は淡海三船の撰とある。そのため、神武天皇から41代持統天皇まで(『日本書紀』では天皇に数えられていない大友皇子=39代弘文天皇を除く)、及び天皇不在の摂政という特異な地位を持つ神功皇后の諡号は、淡海三船が中央で勤務していた天平宝字6年(762年)?同8年(764年)に一括撰進されたと想像されているが、養老6年(722年)には埼玉県の聖神社に「元明金命」(43代元明天皇)が合祀されたと伝えられている。また天平勝宝3年(751年)の『懐風藻』には「文武天皇」(42代)と見えており、また天平宝字2年(758年)に「聖武天皇」(45代)に「勝宝感神聖武皇帝」を諡し、譲位したばかりの孝謙天皇[注釈 6](46代)に「宝字称徳孝謙皇帝」の尊号を贈っている。元明天皇は微妙であるが残る4代3人の漢風諡号は淡海三船の一括撰進以前に贈られたと考えられている[注釈 7]。44代元正天皇は史料上は明確でないが、三船の一括撰進に含まれると一般的に考えられている。 漢風の諡号(帝号)は平安期の光孝天皇まで続いたが、その後、律令政治の崩壊と共に途絶えた。これ以降の天皇では、平安末期から鎌倉初期における75代崇徳院(讃岐院から改める)、81代安徳天皇、82代顕徳院(隠岐院から改め、後に後鳥羽院に改める)、84代順徳院(佐渡院から改める)の4例を見るのみである(いずれも怨霊を恐れられたゆえに「徳」の字を奉られた。なお、讃岐院、隠岐院、佐渡院はもちろん諡号ではない)。南朝の96代後醍醐天皇にも北朝の側から「元徳」という諡号を奉るという案があった(後述、#諡字による諡号の意味参照)。 江戸時代後期の光格天皇の時に漢風諡号が復活し、仁孝天皇、孝明天皇の3代を数えた。また明治時代には、淡路廃帝を47代淳仁天皇、九条廃帝を85代仲恭天皇とし、大友皇子を即位したものとして39代弘文天皇とした(→大友皇子即位説)。 大正時代には、南朝の寛成親王の即位の事実が判明したとして98代長慶天皇としたがこれは漢風諡号ではなく院号からとった追号である。 国風諡号・漢風諡号が天皇に奉られなくなった後、代わって死後の称号として主流となった追号(ついごう)も、諡の一形態に属するが、厳密に言って正式な諡号ではない。追号には褒貶の義はなく、単なる通称の域を出ない。追号の命名法は、大別すると以下のようになる。 更に漢風諡号が奉られなくなって以後も、追号に天皇号を用いる慣例はしばらく続いてきたが、冷泉院(正確には先に没した円融院が初例となる)以後は、没後の天皇の追号は院号とされた。これは特に諡号が贈られた安徳天皇を例外として院号が贈られ続けた。なお、『神皇正統記』によれば、後醍醐天皇は南朝によって天皇号を贈られたとされているが、北朝の系統である明治以前の朝廷がこれを認めずに「後醍醐院」と称したことは、江戸時代の『雲上明鑑
漢風諡号制度の衰微と廃絶
諡号の復活と追諡
追号
皇居の宮名を追号とする場合
院号(譲位後の在所である後院の名もしくは出家した寺の庵号)をもって呼ばれる場合
山陵の名を宛てる場合
加後号(先代の追号や諡号の頭に「後」の字をつける)の場合
先代の2つの漢風諡号から1字ずつを取って追号とする場合
在位中の元号をそのまま転用して追号とする場合