諏訪栄町(すわさかえまち)は、三重県四日市市の町名。2010年10月1日現在の面積は0.1300967km2[WEB 1]。
三重県最大の商業集積地域であり[1]、四日市市の中心繁華街を形成している[WEB 6]。 四日市市東部、四日市市中心市街地に位置する。近鉄四日市駅の東口にあたり、全蓋式アーケード付きの商店街が形成されている[2]。商店のほか、宿泊施設や飲食店、遊技場などもある[2]。1983年(昭和58年)発行の『四日市地域商業近代化地域計画報告書』では諏訪栄町北西部が「飲食娯楽ゾーン」、南部が「総合的商業ゾーン」に位置づけられている(北東部は諏訪公園である)[3]。旧東海道が中心を通り、現在も東側で国道1号と接している。 北は西新地、東は中部・諏訪町、南は浜田町、西は安島一丁目と接する。北西角で西浦一丁目と一点で接する。 現在の諏訪栄町に相当する地域は、江戸時代には三重郡に属し、四日市町(四日市宿)および浜田村にまたがっていた[4]。江戸時代のほとんどの時期には天領であったが、享保9年(1724年)から享和元年(1801年)までの間は大和国郡山藩の配下にあった[5]。四日市町はさらに細分化されており、諏訪栄町に相当する地域は西町と南町であった[6]。四日市宿は現在の諏訪栄町北部にある諏訪神社付近が中心であった[1]。 西町は戦国時代には市場町の四日市場への西の入り口として「西の口」と呼ばれていたが、四日市町が宿場町として発達するに伴い西町に改称した[7]。宿場町の業務としては3年に一度、御案内迎番を担当したが、寛政4年(1792年)以降は、3年に一度、御宿の詰番の担当に変わった[7]。また、4月と8月の二条城・大坂城の大御番衆交代による四日市宿往来の際には、竪町とともに詰番をした[7]。 南町は弘治・永禄(1555年 - 1570年)頃には「南市場」と称していたが、四日市の宿場町としての性格が強くなるに従い、寛文3年(1663年)に南町に改称した[8]。南町は四日市宿の中核をなし、問屋場が設置されたほか、四日市宿の御宿の詰番を担当した[9]。 浜田村は、江戸時代には新田開発が盛んに行われた農村である一方、四日市町に連なって町場の景観も見られた[10]。 1906年(明治39年)春に、日露戦争の戦勝記念に諏訪神社の所属公園として、「保光苑」が開園した[11]。保光苑は面積1,206坪の公園であったが、1908年(明治41年)4月1日に四日市市の所有となり、1914年(大正3年)11月に142坪拡張、さらに翌1915年(大正4年)に大正天皇の即位を記念した事業として再拡張し、1916年(大正5年)1月に「諏訪公園」に名を改めた[12]。拡張費用は10,978円で、同年6月に四日市市立図書館が開館、7月には演舞場・小動物苑が設置され、南町にあった旧本陣を園内に移し「行幸記念館」[注 1]として開館・保存した[13]。1934年に市民壇が設置される(1990年に南部丘陵公園に移設)。 諏訪公園は園内の市立図書館とともに市民の憩いの場となったが、1945年(昭和20年)6月18日夜の四日市空襲によって、鉄筋コンクリート赤レンガ造りの図書館を残して皆失われた[14]。なお焼失を免れた図書館の建物は、戦災以降、市立四日市病院に転用されることとなり、1948年(昭和23年)3月に図書館に返還された[15]。 交通面では、1913年(大正2年)に三重軌道(後に三重鉄道)が諏訪前駅 第二次世界大戦終結直後は諏訪駅周辺の焼け跡や諏訪神社前に闇市が立ち、伊勢新聞の1945年(昭和20年)11月24日付の報道によれば、法外な値段で鼻緒のない下駄、一升鍋、アルミニウム製のバケツや杓子、フライパン、ゴム紐、万年筆などが売られていた[17]。これに対して四日市市警察と経済調査庁は闇市などの闇取引を断固として取り締まったが、当時の市民や市の収入役は闇取引がなければ生きていけなかったと手記などに書き留めている[18]。1950年(昭和25年)になると、復興都市計画事業が本格的に始まり、1952年(昭和27年)には現在の中央通りで講和記念全日本農機具・新日本産業大博覧会(四日市大博覧会)が開催された[19]。
地理
歴史
戦前まで
江戸時代
近代旧四日市市立図書館(すわ公園交流館)
戦後
闇市から商業地へ