課税
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1799年に世界で初めて所得税が導入された[48][60]。土地家屋や海外財産の所得、商工業や給与による所得などを源泉としたため、現実の所得を総合的に正確に把握できるようになった[48]。1803年には申告納税ではなく、源源泉徴収方式に切り替えられ、5つの所得源ごとに課税されるシェデュール制(shedule)となった[48]。1815年のナポレオン戦争終結直前には総戦費の20%に当たる1480万ポンドの税収となった[61]。これ以降、産業革命による資本主義の発達を背景に所得税を中心とした所得課税が世界に普及していく。ただし初期の所得課税は高額所得者に対するもので、税収総額としてはわずかなものであった[62]

19世紀には資本主義の矛盾が露呈し、恐慌と不景気による失業には経済の自動調節では解消できないようになり、国家介入が要請されるようになった[58]。ここにおいて近代国家の機能は夜警国家から福祉国家へと変化していき、生存権という新しい人権も生まれた[58]

19世紀末にはジョン・ラムゼー・マッカロックやアドルフ・ティエールらによって租税を保険料として解釈する租税保険説が現れた[59]
ドイツ

1805年、ナポレオンに敗れて神聖ローマ帝国が瓦解した後のプロイセン王国ではハルデンベルク宰相がハインリヒ・フリードリヒ・フォン・シュタインと改革をすすめ、戦費償還のために1808年に所得税法案を成立させた[63]。1812年にはフランス軍駐留経費を賄うために申告納税義務と累進税率を伴う所得税を導入したが、1814年にナポレオンが敗れると廃止された[63]。プロイセンは1820年に階級税を導入したがこれはイギリスの馬車や窓を対象とした外形標準所得課税のようなもので、近代的所得税と言えるものではなかった[63]。1851年の階級税及び階層別所得税では土地所有、資本財産、営業活動から発生する所得に課税された[64]。1891年に成立したヨハンネス・フォン・ミーケル蔵相による所得税法案では、租税負担の上限を撤廃したため、逆進的税負担は是正された[63]。また効率的な納税申告の検査体制も確立し、ドイツにおける所得税は基幹税の地位を占めていくようになった[63]

国家財政学者のローレンツ・フォン・シュタインは『財政学教科書』(1885)で課税原則として、

1)資本を減じてはならない

2)あらゆる課税は所得に対して行われる

3)課税は資本蓄積が不可能になる程大きくなってはならない

と定立した[65]。シュタインは、プロレタリアートが独裁する共産主義思想を、国家が単一の階級の手中に落ちることで新たな不自由が生まれ、かつ有産階級が反撃すれば独裁体制を暴力で守るだろうと否定した上で、有産階級は資本主義の持つ問題を社会改良によって解決すれば社会革命の必要性は薄れると論じた[65]。またシュタインは、課税の目的は再生産にあり、少なくとも同規模の税収を再創出することにあるとし、国家が税収と課税潜在力を促すように財政支出すべきだと主張した[65]。このようなシュタインの租税論はイギリス古典派経済学の租税論にはなかった発想と評価されている[65]

アドルフ・ワーグナーは「財政学」(1890)で課税の目的を、自由競争によって生じた分配を修正することで国民所得と国富を規制する事にあると見て、租税は財政だけでなく社会政策でもあるべきだと主張した[63]。ワーグナーは所得税を、物税(資産税)から人税(納税者に着目してかけられる)への切り替えを提唱した[63]
租税義務説・租税犠牲説

ドイツでは国家はその任務達成のために当然に課税権を持ち、租税はその任務達成のために国民が負担する犠牲ないし義務と考える租税犠牲説が登場した[58]。イギリスでもジョン・スチュアート・ミルが租税利益説に反対し「課税における平等とは犠牲の均等を意味する」と主張した[66]。ミルの租税義務説はアドルフ・ワーグナーが大成した[67]

明治維新後の日本では伊藤博文が憲法起草のためにドイツで直接シュタインの講義を受け、帝国大学での財政学はほとんどがドイツ財政学であった[63]。ドイツの影響を受けた大日本帝国憲法でも納税の義務(第21条)が兵役の義務(第20条)と並ぶ古典的義務とされ、「国を維持する費用の分担として国民は当然有する」と解された[68]。第二次世界大戦後に成立した日本国憲法では兵役の義務条項は削除されたが、納税の義務は踏襲され(第30条)、さらに国民の三大義務の一つとされている[68]
近代

イタリアの経済学者マフェオ・パンタレオーニ、スウェーデンの経済学者クヌート・ヴィクセルが、古典派経済学の租税利益説に対して,納税者が公共サービスから受ける便益の価格として租税負担額を決定することが効率的資源配分の条件であると論じた[59]北欧学派のエリック・R.リンダールはウィクセルの理論を発展させた[59]

近代化が進展するに従い、国家の財政収入の大部分を租税が占めるようになる。ヨーゼフ・シュンペーター1918年に発表した論文『租税国家の危機』において、このような近代国家を「租税国家」と規定した[69]。君主の私的収入と国庫収入が切り離され、租税収入が歳入の中心を占める公共財政が確立して言った。またこの時代になると近代化とともに賦役はほとんどの地域において廃止され、労働に対し国家が賃金を払って公共工事などを行うようになっていった。

20世紀には、社会主義の台頭や社会権の定着によって、所得税・相続税の累進税率が強化された。しかし、1980年代に入ると企業意欲・労働意欲を高めるために税率のフラット化が行われた。また20世紀も中盤にいたるまで消費課税はある特定の商品のみにかけられるものであったが、1954年に一般的な消費すべてにかけられる付加価値税がフランスにおいて導入され、以降世界各国において導入されるようになっていった[70]
アメリカ合衆国

南北戦争以前のアメリカでは所得税も法人税もなく、内国消費税はあったが微々たる収入で、関税が主な収入源だった[71]。南北戦争開戦時には国庫は底をついていたために、議会は戦費調達のために新たな国債発行と内国消費税増税を提案したが反対を受けた[71]。そこでイギリスで実施されている直接税の所得税相続税の導入が検討され、1862年に成立した[71]

しかし、所得税は戦費調達のための臨時課税であったため、一年間の有効期限つきであった[71]。戦後の1867年、所得税の撤廃が要求されると、戦債償還が残っているため課税最低限を600ドルから1000ドルに引き上げ、1870年には所得税法を失効させるとした[71]。その後、1871年に相続税が廃止され、1872年に所得税も廃止された[71]。イギリスでも1816年に所得税は戦費のための臨時課税であるとして廃止された[71]

アメリカで所得税が廃止されると、南部・西部選出議員らが所得税再導入を提唱した[71]。これは農産物価格下落と資材価格上昇に困窮する南部・西部の農民を救済するために組織されたグレンジャー運動やグリーンバック運動や労働騎士団を背景にしており、彼らは1892年に人民党を結成した[71]


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