課税
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しかしこれはロンドン市に負担が集中したため、間接税の内国消費税(Excise Duty)を反対を押し切り導入した[44][46]。査定課税は富裕層への課税であったのに対して内国消費税は庶民にも課税するもので、内戦後のイギリス財政では関税に並ぶ基幹税となっていった[44]イングランド共和国崩壊後の王政復古後も議会は財政権を確保する一方で、チャールズ2世は内国消費税の一部、トン税・ポンド税、関税収入の終身供与が承認された[44]名誉革命での権利の章典においても議会の承認なしの課税は禁止された。こうしてイギリス革命期には、1628年権利の請願で国会による同意なしには税金その他同種の負担を強制されないことが再確認され、1689年権利の章典において国会の承認なしに王が税金を徴収することは違法であると規定され、法の支配とともに租税法律主義も確立した[40]

ホッブズ、ロックなどの17世紀イギリス社会契約論では、個人は、国家が諸個人の生命と財産を保護する対価として租税を負担する[47]。しかし国家がそれに反する行動をとれば租税の支払いを停止するとされ、こうして租税は個人が議会を通して同意した上で国家に支払うものとされた[47]

イギリスの内国消費税は経済理論家から以下の点が評価された[48]

1)生活必需品への軽課と奢侈品への重課(現在の軽減税率)によって貧困層への負担を軽減した

2)消費は支払い能力なのでその支払い能力に応じた課税であり公平である

3)消費への課税によって浪費を抑制し、倹約を奨励するので、勤勉な人が報われるので公平である。倹約は貯蓄と投資を促す[48]

ホッブズは1642年の「市民論」で財産への課税は浪費家と倹約家の区別を無視することになり、倹約家が重負担となるので、消費税の方が財産税よりも公平であると論じた[48]労働価値説を唱えた経済学者ウィリアム・ペティ重商主義経済学者ジェームズ・ステュアート(英語版)も内国消費税を支持した[48]。ステュアートは租税を富のバランスを促進するための政策と見ており、国内の奢侈的需要による価格高騰が輸出を困難にする場合には、内国消費税や輸出奨励金によって是正することができると論じた[49]

他方、経済学者アダム・スミスは『国富論』第5篇で財産税所得税と比べて消費税は収入比例的な課税を実現できないために不平等であると論じた[50]。スミスは国防、司法、公共事業の三つを国家の仕事とし、これらを遂行するための経費を賄うために租税は徴収されるとみなした[50]。スミスは租税は、利潤地代賃金の三つの本源的所得に課税されると論じ、直接税としての所得税を提唱した[50]。あらゆる国家の臣民は、各人の能力にできるだけ比例して、いいかえれば、かれらがそれぞれ国家の保護の下に享受する収入に比例して、政府を維持するために貢納すべきでものある。 ? アダム・スミス、『国富論[51]

ここでスミスは支出に対してではなく、収入(所得)に比例して負担することが公平であると考えている[50]。しかし、当時正確な所得調査は望めなかったためにスミスは所得税導入を提唱はしなかった[50]。(なお、平成12年の税制調査会資料では「収入」が「利益」と翻訳されている[52]
オランダ

1624年にはオランダにおいて収入印紙が初めて導入され、17世紀中にはヨーロッパの多くの国家に広まった。
アメリカ独立?フランス革命

イギリスはフレンチ・インディアン戦争(1755年 - 1763年)の結果増大した英領アメリカ植民地の警備経費捻出のため1764年に砂糖法、翌年に印紙法を、1767年にはタウンゼンド諸法を制定し、植民地からの税収増を図ったが植民地での反対運動により廃止された[53][54]。1773年に茶法が成立するとボストン茶会事件が発生した。1774年の大陸会議宣言と決議第4項はイギリスの植民地立法を否定するもので、イギリスは武力弾圧を開始し、アメリカ独立戦争(1775-1783)へと発展していった[53]アメリカ独立宣言ではイギリスの権利章典よりも自然権思想が鮮明に出され、人民の契約による国家は、人民の所有・生命・自由・財産を守ることを目的とし、国家の課税権も国民の同意な意思に租税を徴収することは私有財産の法則を侵害し、国家の目的に反すると考えられた[53]。ここでは国家の目的が財産権を含む所有の保障にあった[53]。独立戦争では、租税法律主義に由来する「代表なくして課税なし」という有名なスローガンも生まれ[55]、植民地への課税は植民地議会によってなされねばならないと考えられた[53]聖職者貴族を背負う第三身分

封建末期の貴族たちは商人たちから借金を重ねていたため、遂に徴税権を商人たちに売渡す。この商人たちは租税の代徴を行う徴税請負人として人々から税を徴収したが、増益分は自らの懐に入るため、過剰な租税の取り立てが行われた。このため人々の租税に対する不満が高まっていく。特に18世紀のフランスアンシャン・レジームの下では、3つの身分のうち、第一身分聖職者)・第二身分貴族)は免税の特権を持っていたが、第三身分(平民)は納税義務を課せられていた[56]。しかも第三身分は国政に参加できなかった[56]。1786年、国王と財務総監カロンヌは財政窮乏を打開するため補助地租税を全国民に課税したが、これに名士会高等法院が旧来の免税特権をもって反対し、1789年5月5日三部会が開かれることとなった[56]。第三身分は三部会での議員数倍化を要求したが形だけであったことに反発し、国民議会を会合し、ここで議会の承認なしの課税の即時中止を求める決議を行った[56]。8月に憲法制定国民議会人間と市民の権利の宣言を採択した。第13条で「公の武力の維持および行政の支出のために、共同の租税が不可欠である。共同の租税は、すべての市民の間で、その能力に応じて、平等に分担されなければならない」、第14条で「すべての市民は、みずから、またはその代表者によって、公の租税の必要性を確認し、それを自由に承認し、その使途を追跡し、かつその数額、基礎、取立て、および期間を決定する権利をもつ」と規定された[57]。英米では課税権と財産権は明確に区別されたが、フランス人権宣言では「財政なければ国家なし」の原則、つまり課税権の行使は必要不可欠であることが先の13条で規定され、次いで14条でアメリカ独立戦争のスローガン同様に「代表なければ課税なし」の原則が規定された[56]。こうしてヨーロッパの近世市民社会形成期において課税権は国王から国民の総意の代表である議会に移し、そして国民の財産権の保証が図られた[56]

こうして確立していった租税法律主義では、自由権をもとにした私有財産権を国家権力から守ることが最も重要な機能となった[58]。私有財産権が保護されることで、納税が国民自身の利益になるのであり、こうして国民が国家から受ける利益と負担する租税との対価関係が前提とされるようになった[58]。これは租税交換説また租税利益説と呼ばれる[58]。租税は国家の保護に対して支払われるべき価格とみなす租税利益説はグロチウスホッブズジョン・ロックヒュームルソーらによって提唱されたものだった[59]


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