課税
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? アダム・スミス、『国富論[51]

ここでスミスは支出に対してではなく、収入(所得)に比例して負担することが公平であると考えている[50]。しかし、当時正確な所得調査は望めなかったためにスミスは所得税導入を提唱はしなかった[50]。(なお、平成12年の税制調査会資料では「収入」が「利益」と翻訳されている[52]
オランダ

1624年にはオランダにおいて収入印紙が初めて導入され、17世紀中にはヨーロッパの多くの国家に広まった。
アメリカ独立?フランス革命

イギリスはフレンチ・インディアン戦争(1755年 - 1763年)の結果増大した英領アメリカ植民地の警備経費捻出のため1764年に砂糖法、翌年に印紙法を、1767年にはタウンゼンド諸法を制定し、植民地からの税収増を図ったが植民地での反対運動により廃止された[53][54]。1773年に茶法が成立するとボストン茶会事件が発生した。1774年の大陸会議宣言と決議第4項はイギリスの植民地立法を否定するもので、イギリスは武力弾圧を開始し、アメリカ独立戦争(1775-1783)へと発展していった[53]アメリカ独立宣言ではイギリスの権利章典よりも自然権思想が鮮明に出され、人民の契約による国家は、人民の所有・生命・自由・財産を守ることを目的とし、国家の課税権も国民の同意な意思に租税を徴収することは私有財産の法則を侵害し、国家の目的に反すると考えられた[53]。ここでは国家の目的が財産権を含む所有の保障にあった[53]。独立戦争では、租税法律主義に由来する「代表なくして課税なし」という有名なスローガンも生まれ[55]、植民地への課税は植民地議会によってなされねばならないと考えられた[53]聖職者貴族を背負う第三身分

封建末期の貴族たちは商人たちから借金を重ねていたため、遂に徴税権を商人たちに売渡す。この商人たちは租税の代徴を行う徴税請負人として人々から税を徴収したが、増益分は自らの懐に入るため、過剰な租税の取り立てが行われた。このため人々の租税に対する不満が高まっていく。特に18世紀のフランスアンシャン・レジームの下では、3つの身分のうち、第一身分聖職者)・第二身分貴族)は免税の特権を持っていたが、第三身分(平民)は納税義務を課せられていた[56]。しかも第三身分は国政に参加できなかった[56]。1786年、国王と財務総監カロンヌは財政窮乏を打開するため補助地租税を全国民に課税したが、これに名士会高等法院が旧来の免税特権をもって反対し、1789年5月5日三部会が開かれることとなった[56]。第三身分は三部会での議員数倍化を要求したが形だけであったことに反発し、国民議会を会合し、ここで議会の承認なしの課税の即時中止を求める決議を行った[56]。8月に憲法制定国民議会人間と市民の権利の宣言を採択した。第13条で「公の武力の維持および行政の支出のために、共同の租税が不可欠である。共同の租税は、すべての市民の間で、その能力に応じて、平等に分担されなければならない」、第14条で「すべての市民は、みずから、またはその代表者によって、公の租税の必要性を確認し、それを自由に承認し、その使途を追跡し、かつその数額、基礎、取立て、および期間を決定する権利をもつ」と規定された[57]。英米では課税権と財産権は明確に区別されたが、フランス人権宣言では「財政なければ国家なし」の原則、つまり課税権の行使は必要不可欠であることが先の13条で規定され、次いで14条でアメリカ独立戦争のスローガン同様に「代表なければ課税なし」の原則が規定された[56]。こうしてヨーロッパの近世市民社会形成期において課税権は国王から国民の総意の代表である議会に移し、そして国民の財産権の保証が図られた[56]

こうして確立していった租税法律主義では、自由権をもとにした私有財産権を国家権力から守ることが最も重要な機能となった[58]。私有財産権が保護されることで、納税が国民自身の利益になるのであり、こうして国民が国家から受ける利益と負担する租税との対価関係が前提とされるようになった[58]。これは租税交換説また租税利益説と呼ばれる[58]。租税は国家の保護に対して支払われるべき価格とみなす租税利益説はグロチウスホッブズジョン・ロックヒュームルソーらによって提唱されたものだった[59]
租税国家の確立

1733年、ウォルポール内閣は内国消費税改革に試みたが反対された[48]。しかし、オーストリア継承戦争七年戦争(1754年-1763年)に続いて、フランス干渉戦争では戦費のための政府債務が4000万ポンドにまで膨張した[48]。1796年、ウィリアム・ピット首相は直接査定税を引き上げ、内国消費税の課税対象を拡大、1798年には富裕層への直接税トリプルアセスメント(Triple Assessment)を導入した[48]。しかし、これは馬車、家屋、窓、柱時計などの「外形標準」から推定される所得に課税するもので、現実の所得に対するものでなく、また十分な収入にならなかったため半年しか実施されなかった[48]1799年に世界で初めて所得税が導入された[48][60]。土地家屋や海外財産の所得、商工業や給与による所得などを源泉としたため、現実の所得を総合的に正確に把握できるようになった[48]。1803年には申告納税ではなく、源源泉徴収方式に切り替えられ、5つの所得源ごとに課税されるシェデュール制(shedule)となった[48]。1815年のナポレオン戦争終結直前には総戦費の20%に当たる1480万ポンドの税収となった[61]。これ以降、産業革命による資本主義の発達を背景に所得税を中心とした所得課税が世界に普及していく。ただし初期の所得課税は高額所得者に対するもので、税収総額としてはわずかなものであった[62]

19世紀には資本主義の矛盾が露呈し、恐慌と不景気による失業には経済の自動調節では解消できないようになり、国家介入が要請されるようになった[58]。ここにおいて近代国家の機能は夜警国家から福祉国家へと変化していき、生存権という新しい人権も生まれた[58]

19世紀末にはジョン・ラムゼー・マッカロックやアドルフ・ティエールらによって租税を保険料として解釈する租税保険説が現れた[59]
ドイツ

1805年、ナポレオンに敗れて神聖ローマ帝国が瓦解した後のプロイセン王国ではハルデンベルク宰相がハインリヒ・フリードリヒ・フォン・シュタインと改革をすすめ、戦費償還のために1808年に所得税法案を成立させた[63]


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