課税
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紀元前5、4世紀、アテナイにおいて戦費捻出のために一定額以上の財産を所有する市民とメトイコイ(外国人)に課せられ、税率は財産総額の1%だった[34]

ローマ帝国の税制の基本は簡潔であり、属州民にのみ課される収入の10%に当たる属州税(10分の1税)、ローマ市民と属州民双方に課される商品の売買ごとに掛けられる2%の売上税(50分の1税)、ローマ市民にのみ課される遺産相続税や解放奴隷税などであった。3世紀のアントニヌス勅令以降は国庫収入が減少し、軍団編成費用などを賄うための臨時課税が行われることもあった。マルクス・ユニウス・ブルートゥス属州の長官に赴任したとき、住民に10年分の税の前払いを要求した。
日本詳細は「日本の租税#歴史」を参照
中国

春秋時代老子道徳経第75章には「民之飢 以其上食税之多 是以飢(民が飢えるのは政府が税を多く取りすぎるからである)」とある[35]

の主要財源は、算賦(人頭税及び財産税)、田租、徭役(労働の提供)であった。

北魏において均田制が成立したのち、これに基づいて北周租庸調の税制をはじめ、でもこの税法を当初は引き継いだ。しかし玄宗期に入ると土地の集積が進み均田制が崩壊し、土地の存在が前提であった租庸調制も同時に崩壊したため、780年には徳宗の宰相楊炎によって両税法が導入された。これは税の簡素化と実情に合わせた変更によって税収を回復させる試みであり、以後にいたるまで歴代王朝はこの税法を維持し続けた。しかし明代に入ると再び税制の実情とのかい離が起こり、税制は複雑化したため、16世紀末の万暦帝期において、宰相張居正が税を丁税(人頭税)と地税にまとめて銀で一括納入させる一条鞭法を導入した。代に入ると、丁銀を地銀に繰り込んで一本化した地丁銀制が導入された。
イスラム

イスラーム国教とするいくつかの王朝では、ズィンミー(異教徒。キリスト教徒ユダヤ教徒など)に対してジズヤ人頭税)の徴収が行われた。この方式は7世紀ウマイヤ朝を起源としている。正統カリフ時代には税制はいまだ未整備であったが、ウマイヤ朝期に入るアラブ人以外のイスラム教徒(マワーリー)および異教徒からジズヤとハラージュ(土地税)の双方を徴収することとなった。しかしこの方式はマワーリーからの大きな反発を招き、アッバース革命を招くこととなった。こうして成立したアッバース朝はマワーリーからジズヤの納入義務を撤廃し、またアラブ人のイスラム教徒であってもハラージュの納入を義務付けた。こうして成立したジズヤ(異教徒への人頭税)とハラージュ(全国民対象の土地税)の二本立ての税制は、イスラーム諸王朝の基本税制となって広まっていった。
ヨーロッパ

中世ヨーロッパでは教会聖書[36] を典拠として収穫物の10分の1を徴収する十分の一税が教区民に課された[37]。初めは教徒の自発的慣行だったが、8世紀からフランク王国で義務とされ、9世紀にはこの税をめぐって世俗領主との争奪戦がくりかえされ、10世紀には領主の封建的所有権として売買された[37]

中世ヨーロッパでは封建制が採られ、土地を支配する封建領主は土地を耕作する農民から貢納を得て生活していた。貢納のほか、領主直営地における賦役農耕も重要な税のひとつであった。その代り、領主は統治者として領民を外敵から守る役割を果たしていた。領主の主収入は地代であったが、私的収入と公的収入が同一となっており、しばしば戦費調達のために臨時収入が課された。フランスでは十字軍の戦費のためにフィリップ2世1198年に臨時課税を始めた[38]

その後、領主は戦争や武器の改良、傭兵の台頭によって財政難に陥り、相続税・死亡税の新設や地代を上げる。しかし、それでも賄いきれなくなった領主は特権収入に頼るようになる。ここで言う特権とは、鋳貨製塩狩猟・探鉱(後に郵便売店)を指し、領主はこの特権を売渡すことで収入を得た。特権収入の発生は実物経済から貨幣経済への移行の一つの表れとみられている。

貨幣経済が発達すると新しい階級として商人階級が生まれる。土地は売買の対象となり、領主と農民の関係は主従関係から貨幣関係へと変質した。貴族は土地の所有と地代収入を失ったため、商人たちに市場税・入市税・営業免許税・関税・運送税・鉱山特権税などを課す。これらは租税と手数料、両方の側面を持っていた。

14世紀から15世紀にかけてオスマン帝国からの圧迫を受けた神聖ローマ帝国は戦費調達のために等族に資金供出を頼んだ[39]。当時オスマン帝国は25万人の歩兵を確保していた[39]。対して、当時神聖ローマ帝国の皇帝位を世襲していたハプスブルク家の世襲領収入は30万グルデンで、雇える傭兵は年6000人の歩兵、または2500人の騎兵だった[39]。臨時戦費に当たって領主は等族に対して、本来資金供出要求の権利はないことや、等族の権利侵害をすることはないなどの諸条件をつけて資金供出を要求した[39]。領主と等族との「共同の困難」からの財政需要が、租税国家を生み出していくことになった[39]

流通税については、イギリスでは印紙税が重要で、フランスでは登録税が重要な地位を占める[38]
イギリス

イングランドでは1215年ジョン欠地王が課税に反発した貴族たちとの戦いに敗れマグナ・カルタを受け入れた。同憲章には「一切の楯金もしくは 援助金は、朕の王国の一般評議会によるのでなければ、朕の王国においてはこれを課さない」 との規定があり、ここに租税法律主義の萌芽があるとされ[40]、また「承諾なければ課税なし」の原則の起源ともなった[41]

1625年に即位したチャールズ1世は英西戦争戦費調達のための特別税を請求したが、議会が少額の14万ポンドしか承認せず、また王の終身収入[42] でもあった輸出入関税のトン税・ポンド税を1年の期限付きに限定した[43]。王は議会を解散し、議会の同意なしでトン税・ポンド税、船舶税を徴収した[43]。1628年、議会は「議会の同意無しの課税禁止」を第一項目とした権利の請願を提出した[43]。王は一度は承認するものの翌年に議会を解散し、以降、11年間親政を敷いた[43]。この間トン税・ポンド税、船舶税を継続し、また騎士強制に応じない者への罰金や、貴族の領地が王領林を侵害しているとして罰金を課していった[43]主教戦争戦費調達のために王は議会を開催したが、議会では課税禁止法案を次々と可決していった[43]。1641年の大抗議文で対立が決定的となり、1642年にイングランド内戦に至った[44]。1643年、議会は査定課税(Assessed Tax)を導入した[44][45]。これは財産の評価額に応じた課税を課す直接税であり、所得税の前身となった[44]。しかしこれはロンドン市に負担が集中したため、間接税の内国消費税(Excise Duty)を反対を押し切り導入した[44][46]。査定課税は富裕層への課税であったのに対して内国消費税は庶民にも課税するもので、内戦後のイギリス財政では関税に並ぶ基幹税となっていった[44]イングランド共和国崩壊後の王政復古後も議会は財政権を確保する一方で、チャールズ2世は内国消費税の一部、トン税・ポンド税、関税収入の終身供与が承認された[44]名誉革命での権利の章典においても議会の承認なしの課税は禁止された。


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