課税
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印紙税、登録税、通行税などの流通税酒税物品税関税などの消費税[26]たばこ税 [28]
従量税と従価税

数量あたりで税率を定めた税を従量税、価額単位で課される税を従価税という[7]
応益課税と応能課税

納税者の担税力、すなわち租税の負担能力に応じて賦課する立場の考え方を応能課税、公共サービスの受益に応じて課税すべきとする考え方を応益課税という[6]。租税は公益サービスのための財源であることから、少なからず応益課税の要素が内在するが、個別の受益と負担との関係が必ずしも明確でなく、応益負担だけでは成り立たない[6]。地方税は地域住民による負担分任という性格上、応益課税の要素がより重視される[6]。「受益者負担の原則」も参照
税の帰着詳細は「税の帰着」を参照

法においては、税を誰から徴収するかを定めている。多くの国では、税は事業者に課されている(たとえば法人税給与税)。しかし最終的に誰が税を支払うか(税を負担するか)は、その税が製品コストに組み込まれることで、市場が決定する。経済学理論では、税による経済的効果は、必ずしも法的課税者に降りかかるわけではない。たとえば雇用主が支払う雇用に対する税は、少なくとも長期的には従業員に影響を及ぼしている。
国民所得に対する負担率
租税負担率と社会保障負担率各国の租税負担率一覧については「en:List of countries by tax revenue to GDP ratio」を参照

国民所得に占める租税の総額(国税と地方税を合わせた租税収入金額を国民所得で除した額)を租税負担率という[29]。また、国民所得に占める社会保障負担額の総額(医療保険年金保険などを合わせた社会保障負担額を国民所得で除した額)を社会保障負担率という。
国民負担率

国民全体の所得に占める租税負担率と社会保障負担率の合算を 国民負担率(national burden ratio)という[29]。なお、国民負担率に次世代の国民負担(財政赤字分)を加味して算出した割合を潜在的国民負担率という[29]
徴収方式

税の徴収方式としては、申告課税と賦課課税の二つの方式が主な方式となっている。賦課課税方式は各政府が納付義務を持つものに税額を計算して賦課するものであり、申告課税は逆に納付義務を持つものが自ら税額を計算して政府に申告するものである[30]。賦課課税方式は近代までは中心的な徴収方式であったものの、20世紀後半に入ると申告課税が主流の納付方式となった。このほか、いくつかの国家においては納税者への給与などの支払いの際にその雇用者があらかじめ税額相当を天引きしておく、いわゆる源泉徴収が行われている[31]。また、文書に対し収入印紙を貼り付けて納付する印紙納付もある。
租税の歴史

租税の歴史は国家の歴史と密接に関連する。極端な増税は、農民など税の負担者を疲弊させ反乱を招き国家の滅亡につながることもあった。歴史的には、労働、兵役やその地方の特産物などによる納税が行われた時代があった。例えば万里の長城など歴史的な建造物の多くは、強制的な労働力の徴発より作られたものと考えられている。

租税制度は主に次のような変遷を遂げた[32]
古代

原始には、神に奉じた物を再配分する、という形を取っていたとされている。社会的分業によって私的耕作や家内工業の発展とともに集団の中で支配者と被支配者が生じ、支配者は被支配者から財産の一部を得るようになった。これには、被支配者が支配者に差し出す犠牲的貢納と支配者が被支配者から徴収する命令的賦課があった。古代の税としては、物納賦役が主に用いられた。物納は農村においては穀物を主とする収穫が主であり、それに古代においては貴重品であったや、その地方の特産品を特別に納付させることも行われた。賦役は税として被支配者に課せられる労役のことであり、土木工事などの公共事業や、領主支配地における耕作など様々な形態を取った。

古代エジプトパピルス文書に当時の農民に対する厳しい搾取と免税特権をもつ神官・書記に関する記述がある。

古代インドマウリヤ朝では、農民に対し収穫高の四分の一程度を賦課し、強制労働も行われていた。

古代ギリシアには平常、所得税や財産税というものは無く、必要支出は資産家の自発的な公共奉仕によって賄われた[33] 他に、エイスフォラ(Eisphora)という戦時特別財産税があった。紀元前5、4世紀、アテナイにおいて戦費捻出のために一定額以上の財産を所有する市民とメトイコイ(外国人)に課せられ、税率は財産総額の1%だった[34]

ローマ帝国の税制の基本は簡潔であり、属州民にのみ課される収入の10%に当たる属州税(10分の1税)、ローマ市民と属州民双方に課される商品の売買ごとに掛けられる2%の売上税(50分の1税)、ローマ市民にのみ課される遺産相続税や解放奴隷税などであった。3世紀のアントニヌス勅令以降は国庫収入が減少し、軍団編成費用などを賄うための臨時課税が行われることもあった。マルクス・ユニウス・ブルートゥス属州の長官に赴任したとき、住民に10年分の税の前払いを要求した。
日本詳細は「日本の租税#歴史」を参照
中国

春秋時代老子道徳経第75章には「民之飢 以其上食税之多 是以飢(民が飢えるのは政府が税を多く取りすぎるからである)」とある[35]

の主要財源は、算賦(人頭税及び財産税)、田租、徭役(労働の提供)であった。

北魏において均田制が成立したのち、これに基づいて北周租庸調の税制をはじめ、でもこの税法を当初は引き継いだ。しかし玄宗期に入ると土地の集積が進み均田制が崩壊し、土地の存在が前提であった租庸調制も同時に崩壊したため、780年には徳宗の宰相楊炎によって両税法が導入された。これは税の簡素化と実情に合わせた変更によって税収を回復させる試みであり、以後にいたるまで歴代王朝はこの税法を維持し続けた。しかし明代に入ると再び税制の実情とのかい離が起こり、税制は複雑化したため、16世紀末の万暦帝期において、宰相張居正が税を丁税(人頭税)と地税にまとめて銀で一括納入させる一条鞭法を導入した。代に入ると、丁銀を地銀に繰り込んで一本化した地丁銀制が導入された。
イスラム

イスラーム国教とするいくつかの王朝では、ズィンミー(異教徒。キリスト教徒ユダヤ教徒など)に対してジズヤ人頭税)の徴収が行われた。この方式は7世紀ウマイヤ朝を起源としている。正統カリフ時代には税制はいまだ未整備であったが、ウマイヤ朝期に入るアラブ人以外のイスラム教徒(マワーリー)および異教徒からジズヤとハラージュ(土地税)の双方を徴収することとなった。しかしこの方式はマワーリーからの大きな反発を招き、アッバース革命を招くこととなった。こうして成立したアッバース朝はマワーリーからジズヤの納入義務を撤廃し、またアラブ人のイスラム教徒であってもハラージュの納入を義務付けた。こうして成立したジズヤ(異教徒への人頭税)とハラージュ(全国民対象の土地税)の二本立ての税制は、イスラーム諸王朝の基本税制となって広まっていった。
ヨーロッパ

中世ヨーロッパでは教会聖書[36] を典拠として収穫物の10分の1を徴収する十分の一税が教区民に課された[37]。初めは教徒の自発的慣行だったが、8世紀からフランク王国で義務とされ、9世紀にはこの税をめぐって世俗領主との争奪戦がくりかえされ、10世紀には領主の封建的所有権として売買された[37]

中世ヨーロッパでは封建制が採られ、土地を支配する封建領主は土地を耕作する農民から貢納を得て生活していた。貢納のほか、領主直営地における賦役農耕も重要な税のひとつであった。その代り、領主は統治者として領民を外敵から守る役割を果たしていた。領主の主収入は地代であったが、私的収入と公的収入が同一となっており、しばしば戦費調達のために臨時収入が課された。フランスでは十字軍の戦費のためにフィリップ2世1198年に臨時課税を始めた[38]


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