同年10月11日、パリの美術学校、アカデミー・コラロッシ内のラファエル・コラン教室に入る[18]。同教室には久米桂一郎や藤雅三も在籍しており、黒田は同月末より久米との共同生活を開始した[19][16]。1887年(明治20年)1月には、当時フランスで代理公使を務めていた原敬らの斡旋により法律大学校に正式に入学したが、画学の修業に専念しようという意欲が高まり、同年10月初旬に法律大学校を退学し、画業に専念することを決心した[20]。1887年(明治20年)4月には、ポール=ロワイヤル通り(フランス語版)の88番地に久米とともに移転している[21]。
1888年(明治21年)1月、ラファエル・コラン教室において油彩画の練習を始める[22]。同年5月5日、黒田は初めてパリ近郊の芸術家村、グレー=シュル=ロワンに来遊した[23][24]。このときは、義兄の橋口文蔵および案内役を務めた学友のアメリカ人画家と一緒であった[24][25]。同村への訪問は日本人画家としては初めてとされる[26]。
1890年(明治23年)6月1日、グレー村に向けてパリを出発。同村のオテル・シュヴィヨンに滞在した。まず、村の少女を描いた『郷の花』という作品の製作に取りかかり、同月10日ごろに『読書』の製作に取りかかった。この2作の製作はしばらくの間、同時並行的に進められた。グレー村では6月上旬に雨期が始まり、連日のように雨が降っていた。このため、屋内で製作することができる主題として、屋内で女性が読書をしている『読書』が構想されたことが書簡などから判明している[10][2]。黒田は養母の貞子に宛てた同月19日付けの書簡の中で、次のように述べている[27]。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}もうひとつのハうちのなかでおんながほんをよんでをるところです これハうちのなかのゑですからあめがふつてもかくことができます—黒田清輝、『黒田清輝日記』、1890年6月19日
本作については、画稿などは残されていないが、マリア・ビョーが顔を少し伏せて読書をしている様子を正面から描いた鉛筆素描が残っており、その年の6月9日の日付が入っている[10]。『読書』の製作は、当初はおよそ1か月ほどで完成させる予定で進められており、週に4日ほど、午前中の3時間程度、午後からの4時間半から5時間程度を製作の時間に当てていたが、実際に本作がほぼ完成したのはその年の8月末ごろであった[1][2]。久米の回想によると、その後も着衣の色調などについては何度も修正作業を繰り返し、最終的に11月ごろに完成したとされる[28]。
製作開始当初はオテル・シュヴィヨンに宿泊しながら描いていたが、7月中旬にはビョー家にある小住宅に移り、自炊生活の傍ら製作活動に取り組んだ[5][29][30]。黒田によると、この小住宅は6畳ほどの大きさの2階建ての建物であり、1階の土間の奥にあった板敷きの部屋をアトリエ兼炊事室として使用し、2階を居室および寝室として使用していた[5]。1階には流し台のほかにかまどがあった。炊事室の片隅には、2階へ通じる梯子段があった。2階は板敷きになっており、寝台、戸棚および洗面台のほかに椅子が2脚あった。窓は1階と2階にそれぞれ1つずつあった[31][32]。