読売新聞
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戦後は朝刊発行部数160万部からスタートする[8]。
9月15日 本社が千代田区(当時: 麹町区)有楽町の読売別館(現在の読売会館の場所)に移転。
10月23日 経営方針をめぐり、第1次読売争議が発生(12月11日終結)。
11月12日 「漢字を廃止せよ」との社説を掲載し漢字廃止(国語国字問題参照)を推進。
12月12日 第一次読売争議が終結。会社側が論説委員ら5人の解雇を撤回、正力松太郎社長の退陣も決まる[11]。
正力松太郎社長がA級戦犯容疑で逮捕。巣鴨拘置所に収容される(1947年不起訴で釈放後公職追放)。
馬場恒吾、社長就任。
1946年
5月1日 題号「讀賣新聞」に復帰。
6月13日 第2次読売争議が発生(10月16日終結)。
7月1日 従来の縦書き楷書体題字に代えて印南渓龍が書いた横書きの隷書体による現行題字の使用を開始。
8月10日 紙齢25,000号を達成[7]。
9月1日 「読売信条」を発表。
10月6日 ラジオ欄が一時的になくなる(?25日)[10]。
1947年12月6日 読者投票による「日本十大ニュース」の募集を開始(海外版は1989年から開始)。
1949年
3月1日 朝刊コラム「編集手帖」スタート(1953年8月から「編集手帳」に改題。「編集手帖」以前のコラムのタイトルは「明窓」であった)。
11月26日 「夕刊読売」創刊(夕刊が復活、1951年9月に朝夕刊セット制再開により読売本紙に統合)。秋好馨の4コマ漫画『轟先生』が連載開始[注釈 3]。
1950年6月1日 読売新聞社が株式会社に改組。
1951年 正力松太郎の公職追放解除。
1952年11月25日 大阪市で「大阪讀賣新聞」創刊(後の読売新聞大阪本社)し、務臺光雄(後の読売新聞社社長・名誉会長)が初代社長に就任した。それまで東日本のブロック紙にすぎなかったが、関西・西日本に本格進出を果たした。朝日新聞・毎日新聞と並ぶ全国紙としての礎を築く。
1953年
1月20日 テレビ欄を設ける[10]。
8月28日 読売新聞社などの出資による日本初の民間テレビ局・日本テレビ放送網(日テレ)が本放送を開始。
1955年1月1日 正力松太郎の命令により、原発導入を図るため大キャンペーンを展開開始。
1955年4月1日 英字新聞『ザ・デイリー読売』(THE DAILY YOMIURI)創刊。
1958年 朝刊発行部数が300万部を突破[8]。務臺光雄が大阪に準キー局の讀賣テレビ放送を開局させる。
1959年5月1日 札幌市に北海道支社開設。現地印刷開始。
1960年5月10日 紙齢30,000号を達成[7]。
1961年5月25日 富山県高岡市に北陸支社開設。現地印刷開始。
1962年4月1日 読売日本交響楽団設立。
1964年9月23日 当時九州地方最大の都市であり、鉄道交通の要所であった福岡県北九州市に「読売新聞西部本社」設立。九州・山口版の現地印刷開始。
1966年6月29日 この日から7月2日まで行われたビートルズ日本公演を主催。
1967年
朝刊発行部数が500万部を突破[8]。
5月 家庭面で「こどもの詩」のコーナーがスタート[12]。
1971年10月29日 読売新聞社、本社が中央区銀座から千代田区大手町1丁目7番1号に移転。跡地はプランタン銀座を経てマロニエゲート(銀座2&3)になっている。
1974年
2月1日 紙齢35,000号を達成[7]。
10月11日 昭和天皇・香淳皇后が読売新聞社(大手町)に来訪。
11月2日 創刊100周年。
1975年
北東北(青森県・岩手県・秋田県)向けの新聞印刷工場を青森市に開設(分散印刷工場の第一号)。
3月25日 名古屋市で読売本体との姉妹提携紙として「中部讀賣新聞」創刊。創刊当初の数年間は中部版独自の縦組み題字であったが、その後他の本社と同じ横組みとなる。なお中部読売は当初、不当廉売事件などの影響もあり、全国紙の一部でありながら日本新聞協会の正会員の申請ができなかったが、1987年に正会員となった。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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