読売新聞
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1960年5月10日 紙齢30,000号を達成[7]。
1961年5月25日 富山県高岡市に北陸支社開設。現地印刷開始。
1962年4月1日 読売日本交響楽団設立。
1964年9月23日 当時九州地方最大の都市であり、鉄道交通の要所であった福岡県北九州市に「読売新聞西部本社」設立。九州・山口版の現地印刷開始。
1966年6月29日 この日から7月2日まで行われたビートルズ日本公演を主催。
1967年
朝刊発行部数が500万部を突破[8]。
5月 家庭面で「こどもの詩」のコーナーがスタート[12]。
1971年10月29日 読売新聞社、本社が中央区銀座から千代田区大手町1丁目7番1号に移転。跡地はプランタン銀座を経てマロニエゲート(銀座2&3)になっている。
1974年
2月1日 紙齢35,000号を達成[7]。
10月11日 昭和天皇・香淳皇后が読売新聞社(大手町)に来訪。
11月2日 創刊100周年。
1975年
北東北(青森県・岩手県・秋田県)向けの新聞印刷工場を青森市に開設(分散印刷工場の第一号)。
3月25日 名古屋市で読売本体との姉妹提携紙として「中部讀賣新聞」創刊。創刊当初の数年間は中部版独自の縦組み題字であったが、その後他の本社と同じ横組みとなる。なお中部読売は当初、不当廉売事件などの影響もあり、全国紙の一部でありながら日本新聞協会の正会員の申請ができなかったが、1987年に正会員となった。
1977年2月 朝刊発行部数が720万部と『朝日新聞』を抜き、日本一となる[8](世界一の発行部数となったのは1990年代、ソ連→ロシアの『プラウダ』『コムソモリスカヤ・プラウダ』などが部数を大きく減らして以後である)。
1978年 『ギネスブック』(現:『ギネス世界記録』)(1979年版)に「共産圏を除いて世界で最大の発行部数をもつ新聞」と記載される[13](2009年版にも「日刊紙の最大発行部数」として掲載[8])。
1979年 渡邉恒雄(現読売新聞グループ本社会長)が論説委員長に就任。
1980年 空白の一日事件や読売ジャイアンツ長嶋茂雄監督解任に対する不買運動に遭う。
1980年 宝塚市学童誘拐事件において、被害者の安全を考慮せずに報道協定を破りフライング報道を行う。兵庫県警記者クラブは3か月間除名する処分に留めた[注釈 4]。
1982年4月1日 植田まさし作の4コマ漫画『コボちゃん』が連載開始。
1987年10月25日 紙齢40,000号を達成[7]。
1988年6月1日 中部讀賣新聞社が読売本体と合併し読売新聞中部本社となり、題号から「中部」が外れる。
1989年12月1日 被疑者の呼び捨てをやめ、「容疑者」などの呼称を付ける。
1994年
5月 日本ABC協会の報告により、朝刊発行部数が1000万部を突破(1001万9985部)[8]。
11月3日 当時の社長である渡邉恒雄の下で、主要なマスコミで初めて「憲法改正試案」を発表して、日本国憲法の改憲を主張。憲法について再考する一つのきっかけになった。
1995年6月16日 デジタル版であるYOMIURI ONLINE(現在の読売新聞オンライン)を開設。
1999年2月1日 経営難の中央公論社を買収し、中央公論新社を設立。
2000年
1月1日 「読売信条」を改定。
1月26日 全国の販売店の呼称を「読売センター」(略称: YC)に統一。これまでは東京と西部が「YSC」、大阪が「読売IC」の呼称だった。
12月1日 紙面の文字拡大。「第二次文字拡大ブーム」に火を付ける。
2001年
1月 日本ABC協会の報告により、朝刊発行部数が1031万91部を達成(過去最高)[8]。
7月17日 紙齢45,000号を達成[7]。
2002年
1月1日 読売新聞の題字下に記載されていた、「THE YOMIURI SHIMBUN」のローマ字が廃止。
7月1日 グループ再編。株式会社読売新聞社を株式会社読売新聞グループ本社(グループ持株会社)と株式会社読売新聞東京本社に、株式会社よみうりを株式会社読売新聞西部本社と株式会社読売巨人軍に会社分割。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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