読売新聞
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「よみうり寸評」で1981年の日本記者クラブ賞を受賞した村尾清一記者は、1987年6月、出版局顧問に退いた[34]

1987年11月29日、大韓航空機爆破事件では、「大韓航空機の墜落確認 タイ奥地」(11月30日夕刊)と報道した。墜落したのは、ベンガル湾上空であった。またこの事件では、11月30日、日本人に背乗りした偽造日本国旅券を使った人物が、中東バーレーンで逮捕されそうになり服毒自殺をした。12月2日付夕刊で読売新聞は「墜落大韓機自殺の男 宮本と同一人物か」と、自殺した男性が宮本明(李京雨)と同一人物と報じた。実際は金勝一で、他紙は「自殺男性 宮本と別人か」(同日毎日新聞夕刊)と報じていた。また翌3日、夕刊一面トップは、「「宮本」に逮捕状」の見出しが踊り、「3日、公文書偽造などの容疑で逮捕状をとった」と報道した。しかし、実際は、翌4日朝刊「「宮本」逮捕状請求は見送り」であり、完全な誤報であった。「韓国筋」「公安筋」に頼りすぎた結果の、誤報続出であった[55]

1989年8月17日、夕刊一面トップで、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の容疑者「宮崎のアジトを発見」と報道した。記事ではアジトの様子が語られており、アジト付近の地図まで載っていたが捜査本部は全面否定し、全くの虚偽であることが判明。翌日には「おわび」を出したものの、「検証」記事に2ヶ月もかかり、その内容も具体性に欠けるものであった。この虚偽報道事件は、珊瑚損傷記事捏造(『朝日新聞』同年4月20日夕刊)やグリコ・森永事件の犯人取り調べ捏造(『毎日新聞』同年6月1日朝刊)とならぶ一大スキャンダルであったが、朝日新聞のサンゴ事件の影に隠れてほとんど話題にされず、読売新聞は処分の内容も、記事を書いた記者の名前も明らかにしなかった。詳細は「読売新聞の宮崎勤事件に関する捏造事件」を参照

1990年5月6日、子供の日翌日の朝刊社会面トップは、「雨の日の5日午前2時幼い2人置き去り 歩道とぼとぼ 保護 親の名言わず」と、「豊かな時代」の「子捨て」を報道し、「親の身勝手から依然として後を絶たない」と批判した。しかし実際は、父に黙って深夜に外出して保護されただけであり、記者の早とちりであった。ところが、訂正・お詫び記事を出さなかったどころか、「同署では"兄妹は大人たちに囲まれ、緊張感と警戒心で自宅がすぐ近くにあることさえ口に出せなかったのだろう"と同情している」(5月7日夕刊)と書き、読売新聞は誤報の責任を子供になすりつけた。

1994年3月25日、朝刊一面に「『グリコ・森永』に有力容疑者 大阪の男、一部供述」という見出しがおどった。内容は、「グループ8人か」「捜査本部一斉聴取へ」「江崎勝久グリコ社長誘拐に始まった一連の事件について関与を示唆するような供述」「末端の実行犯の可能性」「『しゃべれば、殺される』などと供述」「当時の行動を再現させるなど、確認作業を始めた」「時効まで残すところ二ヶ月余りという局面で最大のヤマバをむかえる」というもの。しかしその後進展はなく誤報であることが分かった。読売新聞は6月2日朝刊一面の「グリコ・森永事件『アベック襲撃』も時効」と伝えたことを受けての社会面記事、「悔しい時効」の一節にあわせて掲載した「大阪社会部『グリコ・森永事件』取材班」の署名入り記事「性急だった本紙報道」の中で「情報の検証に甘さがあったことは否めない」と釈明した[55]

松本サリン事件において、6月28日付でマスメディアが報じた「薬剤の調合をまちがえた」「農薬混合」とされた「毒ガスの正体」が、7月3日になって農薬ではなく調合では精製できない化学兵器の『サリン』と判明したものの、1994年7月15日夕刊では「薬剤使用をほのめかす 事件直後に会社員」と、会社員・河野義行を犯人視させる報道をおこなっている。なお読売新聞は1995年5月12日になってから河野に対し紙面で謝罪をおこなった。

1995年3月28日、地下鉄サリン事件の報道が過熱する中で、朝刊一面にトップに「入院の男 容疑者と断定」「小伝馬町駅 サリン車内に置く」「目撃情報で突き止める」「回復次第 取り調べ」と題した記事を掲載した。内容は、営団地下鉄日比谷線の電車の3両目車内に、サリン発生源である新聞包をおいたコート姿のサングラスの男は、サリンを浴びて入院している男と同一人物であることが、目撃情報によって突き止められた、というものである。しかし同日夕刊の続報では、社会面で「犯行とは無関係」と、朝刊特ダネを完全に否定した。容疑者と断定した人物についての謝罪・顛末説明は行われていない。

2001年から2002年にかけて、読売新聞は田中眞紀子外相更迭の旗振り役をになう。2001年6月2日付社説では、「機密費問題などに見られる外務官僚の閉鎖的体質を改めるのは大事なことだ。だが、いたずらに省内に混乱を生じ、外交を弱めるようでは本末転倒」と、田中外相の外交感覚を危惧。8月3日、4日付社説では、事務次官人事の混乱に基づき、田中外相の更迭を要求した。これは、「9・11」以後噴出する田中外相批判の先鞭となり、2002年1月29日の外相更迭につながっている。しかし2002年2月以降、機密費横領・水増し詐偽・組織的裏金作り・私的流用・「鈴木宗男疑惑」などが噴出すると、一転して「『政と官』の不明朗な関係が批判されているにもかかわらず、外務省幹部の意識が一向に改まっていない」(2002年2月24日付社説)と批判した。

2002年4月、個人情報保護法案と人権擁護法案の国会審議入りに際して、日本新聞協会(会長・渡邉恒雄)は、表現・報道の自由を侵すとして廃案・出直しをもとめ、緊急声明まで出して反対姿勢を示していた。しかし読売新聞は、個人情報保護法については、メディアを含めて守らなければならない基本原則のうち「透明性の確保」を報道分野だけ除外する、などを柱とした「「報道の自由」と両立を/修正試案を本社提言」を5月12日付1面で掲載した。5月13日、小泉首相は、読売試案を参考にして修正協議に入るように山崎幹事長に指示。事前了解済みを疑わせる怪しい動きに、ほとんどのメディアがこの読売試案に反発。「特定の大新聞がよければ「青信号」を出せるような法案ではない」(『北海道新聞』)「読売案は<歴史の汚点>」(月刊『文藝春秋』)と強い批判を浴びた。

2002年9月18日、小泉訪朝による日朝首脳会談では、政治部長署名記事で、「北朝鮮軍事独裁国家である限り、経済協力などできるものではない」と啖呵をきった。しかし、1962年から1965年朴正煕政権との日韓国交回復交渉において、金鍾泌と日韓国交回復に反対していた党人派大野伴睦を引き合わせるなどして、軍事独裁国家に対する経済協力を実現させた黒子役は、読売新聞の渡邉恒雄記者(当時)であった[34]
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