読売新聞
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1974年から1975年にかけて、読売新聞は名人戦騒動をおこした。1961年から始まった旧・名人戦は、高度成長期に14年間も、2500万円前後に契約金が据えおかれた。そこで日本棋院は、1億円の契約金を提示した朝日新聞に名人戦主催権を移すことを表明。あわてた読売新聞は、「金目当て」「信義がない」と激しいバッシングをほぼ1年にわたって囲碁界全体に加え、裁判にまで発展した。1975年末、「最高棋士決定・棋聖戦」創設(1976年から開始)という形で落ち着いたものの、日本棋院のプロの卵である院生の数は激減。日本囲碁界の凋落と中国・韓国の台頭の一因となった[54]

1978年、ドラフト会議前日に協定の隙を突いて、プロ野球セ・リーグの読売ジャイアンツと作新学院法政大学出身(のち阪神タイガース読売ジャイアンツ、解説者)の投手江川卓が入団契約を結んだ事件、いわゆる空白の一日。これは栃木選出の代議士である船田中議員らが関与したとも言われ、その経緯は「実録たかされ」(原作:江川卓、作画:本宮ひろ志)などに詳しい。この事件は読売の100年史においてもその記載をどうするかで論議されたが、結局掲載を見送られるなど、読売社内においても一種のタブー扱いになっていた。しかし、2005年日本テレビのスポーツ番組においてこの事件が取り上げられるなど、近年では内部での扱いが変化しつつある。詳細は「江川事件」を参照

1986年12月5日夕刊では、「よみうり寸評」差し替え事件がおきた。「よみうり寸評」では、中曽根政権の売上税導入の決定に対して、「朝三暮四のもう一つの意味、詐術を用いて人を愚弄する点も、今回は当てはまる。(略)中曽根首相は七月の同日選のとき、『大型間接税は導入しない』と選挙民に約束した」と批判。渡邉恒雄主筆1985年6月就任)の展開した「売上税は中型間接税だから公約違反ではない」という売上税導入キャンペーンにそぐわぬためで、夕刊3版から急遽差し替えられた。「よみうり寸評」で1981年の日本記者クラブ賞を受賞した村尾清一記者は、1987年6月、出版局顧問に退いた[34]

1987年11月29日、大韓航空機爆破事件では、「大韓航空機の墜落確認 タイ奥地」(11月30日夕刊)と報道した。墜落したのは、ベンガル湾上空であった。またこの事件では、11月30日、日本人に背乗りした偽造日本国旅券を使った人物が、中東バーレーンで逮捕されそうになり服毒自殺をした。12月2日付夕刊で読売新聞は「墜落大韓機自殺の男 宮本と同一人物か」と、自殺した男性が宮本明(李京雨)と同一人物と報じた。実際は金勝一で、他紙は「自殺男性 宮本と別人か」(同日毎日新聞夕刊)と報じていた。また翌3日、夕刊一面トップは、「「宮本」に逮捕状」の見出しが踊り、「3日、公文書偽造などの容疑で逮捕状をとった」と報道した。しかし、実際は、翌4日朝刊「「宮本」逮捕状請求は見送り」であり、完全な誤報であった。「韓国筋」「公安筋」に頼りすぎた結果の、誤報続出であった[55]

1989年8月17日、夕刊一面トップで、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の容疑者「宮崎のアジトを発見」と報道した。記事ではアジトの様子が語られており、アジト付近の地図まで載っていたが捜査本部は全面否定し、全くの虚偽であることが判明。翌日には「おわび」を出したものの、「検証」記事に2ヶ月もかかり、その内容も具体性に欠けるものであった。この虚偽報道事件は、珊瑚損傷記事捏造(『朝日新聞』同年4月20日夕刊)やグリコ・森永事件の犯人取り調べ捏造(『毎日新聞』同年6月1日朝刊)とならぶ一大スキャンダルであったが、朝日新聞のサンゴ事件の影に隠れてほとんど話題にされず、読売新聞は処分の内容も、記事を書いた記者の名前も明らかにしなかった。詳細は「読売新聞の宮崎勤事件に関する捏造事件」を参照

1990年5月6日、子供の日翌日の朝刊社会面トップは、「雨の日の5日午前2時幼い2人置き去り 歩道とぼとぼ 保護 親の名言わず」と、「豊かな時代」の「子捨て」を報道し、「親の身勝手から依然として後を絶たない」と批判した。しかし実際は、父に黙って深夜に外出して保護されただけであり、記者の早とちりであった。ところが、訂正・お詫び記事を出さなかったどころか、「同署では"兄妹は大人たちに囲まれ、緊張感と警戒心で自宅がすぐ近くにあることさえ口に出せなかったのだろう"と同情している」(5月7日夕刊)と書き、読売新聞は誤報の責任を子供になすりつけた。

1994年3月25日、朝刊一面に「『グリコ・森永』に有力容疑者 大阪の男、一部供述」という見出しがおどった。内容は、「グループ8人か」「捜査本部一斉聴取へ」「江崎勝久グリコ社長誘拐に始まった一連の事件について関与を示唆するような供述」「末端の実行犯の可能性」「『しゃべれば、殺される』などと供述」「当時の行動を再現させるなど、確認作業を始めた」「時効まで残すところ二ヶ月余りという局面で最大のヤマバをむかえる」というもの。しかしその後進展はなく誤報であることが分かった。読売新聞は6月2日朝刊一面の「グリコ・森永事件『アベック襲撃』も時効」と伝えたことを受けての社会面記事、「悔しい時効」の一節にあわせて掲載した「大阪社会部『グリコ・森永事件』取材班」の署名入り記事「性急だった本紙報道」の中で「情報の検証に甘さがあったことは否めない」と釈明した[55]

松本サリン事件において、6月28日付でマスメディアが報じた「薬剤の調合をまちがえた」「農薬混合」とされた「毒ガスの正体」が、7月3日になって農薬ではなく調合では精製できない化学兵器の『サリン』と判明したものの、1994年7月15日夕刊では「薬剤使用をほのめかす 事件直後に会社員」と、会社員・河野義行を犯人視させる報道をおこなっている。なお読売新聞は1995年5月12日になってから河野に対し紙面で謝罪をおこなった。

1995年3月28日、地下鉄サリン事件の報道が過熱する中で、朝刊一面にトップに「入院の男 容疑者と断定」「小伝馬町駅 サリン車内に置く」「目撃情報で突き止める」「回復次第 取り調べ」と題した記事を掲載した。内容は、営団地下鉄日比谷線の電車の3両目車内に、サリン発生源である新聞包をおいたコート姿のサングラスの男は、サリンを浴びて入院している男と同一人物であることが、目撃情報によって突き止められた、というものである。
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