読売新聞
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また「y&y」の時代は「y&y日曜版」とは別に、週間のテレビ番組表「y&yテレビ」が木曜に連載されていたが、2008年10月の号から日曜版と一緒に封入されるようになった[42]。
Jリーグのチーム表記問題「東京ヴェルディ1969#歴史」も参照
1992年のナビスコ杯から1993年にかけてのJリーグ草創期、自社が当時メインスポンサーとして運営していたヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)のチーム名を「読売ヴェルディ」とした(日テレも同じ。スポーツ報知=読売系スポーツ紙は「読売ヴェルディ川崎」とした)。
渡邉恒雄は企業名を冠したことについて「プロ野球と同じようにJリーグも企業重視が必要だ」、「川崎製鉄、川崎重工業[注釈 9]の商標で商標権侵害の恐れがある」[注釈 10]、「東京への移転問題」などの理由を挙げていた。[注釈 11]
Jリーグでは企業名は排除して自治体(市区町村名)+愛称で表記するように指導しており、1994年度以後のシーズンは企業名を排除して「ヴェルディ川崎」としてクレジットするようになった。
その他、横浜マリノスは「横浜」、横浜フリューゲルスは「AS」とした。これはフリューゲルスが当時長崎県、熊本県、鹿児島県をホームタウンに準ずる権限のある「特別活動地域」とした実質上の広域ホームタウン[注釈 12]であることを考慮したが、これも1994年から「横浜M」「横浜F」に統一された[注釈 13]。
注目を集めた報道・スクープ
1953年、新宿暗黒街の暴力追放などのキャンペーン報道により、第1回菊池寛賞を受賞[43]。
1954年、第五福竜丸の被爆事件の特ダネを報道。一躍、世界に知られるようになる。
連載「物価戦争」による物価引き下げのキャンペーン報道により、1966年度日本新聞協会賞を受賞[44]。
1962年8月28日、日本国内でサリドマイド児の存在を初めて明らかにした梶井正博士(北海道大学医学部)のデータをスクープした[45]。それを受けて約半月後(9月13日)、ようやく大日本製薬はイソミンとプロバンMの販売中止(及び回収)に踏み切った。レンツ警告(1961年11月)から遅れること約10か月後のことであった。
1968年、連載「昭和史の天皇」により、第16回菊池寛賞を受賞[43]。
1973年8月8日に起こった金大中事件で、韓国KCIAが介在していたことをスクープし、1974年度日本新聞協会賞を受賞した[44]。
1977年、弘前大学教授夫人殺人事件の再審に関する報道により、第25回菊池寛賞を[43]、また本事件に関する一連の報道により、1977年度日本新聞協会賞を受賞[44]。
企画「医療をどうする」により、1978年度日本新聞協会賞を受賞した[44]。
在韓日本人妻里帰りキャンペーン報道により、1986年度日本新聞協会賞を受賞した[44]。
1988年に発生した大阪府警察の巡査及び堺南署(現西堺警察署)署長以下の職員が組織ぐるみで主婦に占有離脱物横領の罪を着せようとした事件では、読売新聞記者がいち早く事件を耳にし、社会面に大きく特集記事を掲載したことから事件が発覚、主婦の冤罪が晴れた。この報道により、1988年度日本新聞協会賞を受賞した[44]。詳細は「警察官ネコババ事件」を参照
1991年6月3日の雲仙・普賢岳噴火の写真報道により、1991年度日本新聞協会賞を受賞[44]。
企画「PKOぐったり“良識の歩み”」により、1992年度日本新聞協会賞を受賞[44]。
1994年の文化の日、日本のマスコミとしては初めての問題提起である「憲法改正草案」を発表し、憲法改正論議のさきがけとなる。しかし48年前の同月同日(日本国憲法公布の当日)に発行した『新憲法読本』で“新憲法をしっかりと身につけ新憲法を一貫して流れる民主主義的精神を自分たちのものとすることによって、われわれははじめて平和国家の国民としてたち直ることができるのである。”、憲法第9条について同書で“新しい時代の平和の典型として日本憲法を見るならば、ある程度の戦力保持の必要を漠然と感じる危惧感は、この憲法によって再生しようとする日本国民のヒューマニズムを踏みにじるものでしかない。それは単なる感傷の域を脱しない小市民的感情であろう”と述べていた事はあまり知られていない(つまり転向した)[46]。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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