読売新聞
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

そのためか、民主党については、方向が違うために批判する場合だけでなく、税制改革[33]のように基本的な方向は民主党主流派と一緒だが程度の違いがあるための批判という場合もある。これに関して言えば、同じ自民党支持でありながらも野党を批判する傾向が多い産経新聞とは一線を画していると言える。その他に、主筆・渡邉恒雄が戦争経験者であるため、特に靖国神社(特に遊就館)における歴史認識には批判的で、小泉純一郎靖国参拝には反対していた。「渡邉恒雄#靖国神社に対する見解」も参照

政府の政策に関し、政策分野によっては(憲法改正問題、防衛政策など)、社の見解(社論)を明確に打ち出すのが特徴である(「本社、憲法改正試案を発表」、1994年11月3日)。他方、不得意な政策分野については、基本的に官庁発表をベースに報道を行い、官庁発表に顕れていない問題意識を独自に掘り起こすような記事に紙面を割かないのも特徴である。また、個々の記者の見解が前面に出るような記事が少なく、社論に沿った記事がほとんどであることも特徴である[34]。同業他社からは「記者というより、ただのサラリーマン」と半ば憐れみを持って評されることも多く、これは記者能力の徹底的な平準化を目指す社員教育に要因を求める見解も存在する。また個々の記事のつくりは他紙に比べて独特で、見出しと内容に齟齬がある場合が散見される。記事については時に、「表現の詰めが甘く、完成度が低い」とも指摘される。

原子力発電については正力松太郎が原子力委員会の初代委員長に就任した経緯から一貫して推進を主張しており、社説でエネルギー問題(例:石油価格高騰や再生可能エネルギー等)を論じた後の結びには、必ずと言っていいほど原子力発電推進の主張で締めくくっているほど原発には固執している[35][36][37]

また、新聞業界の権益を確保するために、民主主義の維持を大義名分として社説で新聞特殊維持を主張したり(2006年2月20日付社説)、新聞への軽減税率導入をたびたび主張したり(2015年12月20日・2016年2月20日付社説)するなどして、結局それが実施されるなど紙面の政治への影響も大である[38]。その一方で先の軽減税率や2015年安保法案の報道に関しては、賛否両論があったにもかかわらず、読売はそれに賛成する記事や意見だけを取り上げ、反対する意見は取り上げることはなかった[39]

5大全国紙中で唯一の人生相談コーナー「人生案内」を紙面に持っている。また教育面は早稲田大学と提携[40]。また2008年に読売ウイークリーを販売不振で休刊させて以降、週刊誌を発行していない唯一の全国紙となった。

読売新聞の読者層について、木村雅文は大阪商業大学JGSS(Japanese General Social Surveys、日本版総合的社会調査)研究センターの調査をもとに、「日経や朝日と比べて高卒(新制)の割合、ブルーカラーの割合、非正社員の割合が多い」としている。これら学歴、職業を反映して読者世帯の平均年収は、毎日と並んで、日経、朝日、産経に次ぐとしている(いずれも木村、2004 ⇒[3])。
全国紙への道.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この節の加筆が望まれています。

読売新聞社は、戦前に「九州日報」など日本各地の地方紙を買収して経営に参画し、全国進出を計画したが、第二次世界大戦に伴う新聞統制により、その計画は頓挫した。

1952年(昭和27年)11月25日、大阪府大阪市北区野崎町で「大阪讀賣新聞」の第一号を発刊した。東京の讀賣新聞社(現・読売新聞東京本社)とは別会社・別法人による「株式会社大阪讀賣新聞社」によって「讀賣新聞」が関西に進出し、全国紙としての体制を整えた。1953年4月1日付から、題字から「大阪」を外し、東京と同じ「讀賣新聞」の題号で発行。1971年から「読売新聞大阪本社」の呼称を使用。
1964年(昭和39年)9月23日、福岡県北九州市小倉北区砂津中津口(現・明和町1-11)で「読売新聞」の西部版第一号を発刊。当時の読売新聞西部本社は、読売巨人軍の運営会社、読売興業株式会社(後に『株式会社よみうり』に商号変更)の一事業として発足した。
1975年3月25日に、読売新聞の東海3県での発行としての形で、愛知県岐阜県三重県を対象地域とする『中部読売新聞』(題号:中部讀賣新聞、読み:ちゅうぶよみうりしんぶん)が創刊された。紙面は、東京で製作された紙面を一部共用し、読売本社と中部読売は編集・工務・販売・広告などの部門で互いに協力し合った。創刊号は、一般的な読売新聞の横並びの題字ではなく、中部読売独自による縦並びの題字[41]が使われた。

毎週日曜には週刊二部紙として日曜版「よみほっと」が一緒に封入されている。以前は「日曜版」→「y&y」という題名だった。また「y&y」の時代は「y&y日曜版」とは別に、週間のテレビ番組表「y&yテレビ」が木曜に連載されていたが、2008年10月の号から日曜版と一緒に封入されるようになった[42]
Jリーグのチーム表記問題「東京ヴェルディ1969#歴史」も参照

1992年ナビスコ杯から1993年にかけてのJリーグ草創期、自社が当時メインスポンサーとして運営していたヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)のチーム名を「読売ヴェルディ」とした(日テレも同じ。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:303 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef