読売新聞(よみうりしんぶん、題字: 讀賣新聞、英: The Yomiuri Shimbun)は、読売新聞東京本社、読売新聞大阪本社および読売新聞西部本社が発行する新聞[4]。朝刊発行部数は598万部[5]と国内首位の発行部数を誇る代表的な日本の全国紙である。デジタル版(ニュースサイト)として「読売新聞オンライン」が存在する。 題号は江戸時代に瓦版を読みながら売っていた「読売」に由来する。創刊時には、他に「ふりがな新聞」「やはらぎ新聞」「東西南北」などの案があった。 2020年の読売新聞社の調査では、9都府県(茨城県・埼玉県・千葉県・東京都・神奈川県・滋賀県・大阪府・和歌山県・山口県)で県内シェア1位[6]。関東のみならず、もともと大阪発祥の朝日新聞や毎日新聞の地盤であった関西地区でも朝日・毎日を上回るシェアを有している。その他、25道府県で地元の県紙やその他の全国紙に次ぐ県内シェア2位であり、大都市圏以外にも地方部も含めて全国的に広範な販売網を持つ[6]。一方で東海地方においては名古屋市に本社を構える中日新聞などの地元紙や朝日新聞などの牙城を崩せず、比較的シェアが低い[6]。 2009年の新聞通信調査会の調査では、全国紙5紙の中では最も保守的論調であるとされている(5点を中心に保守をプラス、革新をマイナスに0-10点でスケールを取ったとき、読売新聞5.6、産経新聞5.3、日本経済新聞5.2、毎日新聞5.0、朝日新聞4.4)。 歴史的に見れば、読売新聞の論調はその時々の時代背景に応じて変化し、一定ではない(ただし、この流れは全国紙で最も革新とされる朝日新聞も同様である)。
概要
歴史讀賣新聞のホーロー看板 縦書き(1字改行、俗にいう右書き)にすると丁度「賣」2つで「言」を両脇から挟む形になる
1874年11月2日 合名会社「日就社」から「讀賣新聞」創刊。初代社長は岐阜県出身の子安峻[注釈 2]。創刊号は表裏2ページ[7]。創刊当時は1日おき発行の隔日刊紙で、漢字によみがなを振った画期的な庶民のための新聞だった。しかし、創刊号の発行部数は約200部で、実売は半分にも満たなかった[8]。
1875年 日刊紙に移行。年末には発行部数が1万7000部を達成[8]。
1891年5月15日 紙齢5,000号を達成[7]。
1897年1月1日 尾崎紅葉作の小説『金色夜叉』が連載開始。
1904年5月7日 本紙直接購読者を対象に、電報料読者負担で重大事件の速報を電報で伝える「電報通信」サービスを開始する(?1905年9月29日)[9]。
1905年4月8日 紙齢10,000号を達成[7]。
1906年10月2日 現在のスポーツ面にあたる「運動界」欄を新設。
1914年
『身の上相談』(現在の『人生案内』)連載開始。
4月3日 現在の生活家庭面(くらし面)にあたる「よみうり婦人附録」新設。与謝野晶子が詩や評論を執筆。
8月1日 横浜市に初の地方支局を開設。
1915年4月3日 1面が全面広告になる(?1923年9月11日、1923年11月11日?1936年12月31日)[10]。
1917年12月1日 商号を「日就社」から「読売新聞社」に改称。