読売新聞
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3月25日 - 当日の朝刊紙面で「向こう1年値上げしない」[注釈 8]と社告。同日ウェブサイトも更新[21]。読売新聞は物価高騰が家計を圧迫する中で、読者に正確な情報を伝え、信頼に応える新聞の使命を全うすべきとし、虚偽の情報や偏った言論が拡散される中で、正確で公正な情報を提供する新聞の役割はより重要であり、読者にこれまで通り新聞を手に取ってもらえるよう、最大限努力するべきだ、と主張している。なお、このあと4月5日、朝日新聞が値上げを公表している。


2024年

3月23日 - 2023年に引き続き購読料を値上げしないことを社告で発表した。

3月 - 日本ABC協会の報告により、朝刊発行部数が598.0万部と報告され600万部を下回る。

 民主主義を支えるため、全国の取材網、戸別配達網を堅持
題字の遍歴[22]

創刊当時は縦書きだった。

横書きの題字が初めて登場するのは、創刊1万号を達成した1905年4月8日の朝刊であるが、1万号の特集の単発的なものあった。

本格的に横書きの題字が登場するのは戦後に入ってからで、今日に至っている。なお、1949年11月に当時は読売新聞とは別枠で独自に発行していた夕刊読売は創刊当初から縦書きだった。また1975年に創刊された中部読売新聞も、創刊された当初は縦書きだったが、すぐ横書きに統一されている。

夕刊に掲載されていた題字のスクリーントーンは、夕刊読売が読売本紙と紙面統合された1951年9月から。以下脚注参照[注釈 5]

横書きになってから、題字の下には「THE YOMIURI SHIMBUN」(夕刊はこの後に改行して「EVENING EDITION」)と表記されていたが、一度2002年1月に廃止された。その後2008年3月31日付夕刊からは朝刊と同様、題字上に「THE YOMIURI SHIMBUN」の表記が復活されている。

創業者京橋の読売新聞社。隣に勧業場。明治末期。武内桂舟

子安峻本野盛亨柴田昌吉が創業し、子安が初代社長(1874-1889)、本野が2代目社長(1889-1909)を務めた。子安峻(1836-1898)は、大垣藩士子安宗茂の長男として生まれ、江戸に出て砲術蘭学舎密学、英語などを学んだのち、1868年に外務省高官となり、傍ら1870年横浜毎日新聞の創刊に関与し、横浜で日就社を創立、1873年には、英和辞典『附音挿図英和字彙』を柴田昌吉とともに出版、翌年読売新聞を発刊した[23]

なお、三代目社長は高柳豊三郎(1910-1912)、四代目は本野英吉郎(1912-1917)、五代目は秋月左都夫(1917-1919)、六代目は松山忠二郎(1919-1924)が務めた[24]
人事
主筆

高田早苗(半峰)(1887年8月1日 - 1891年12月31日)

市島謙吉(春城)(1892年1月1日 - 1894年5月31日)

中井喜太郎(錦城)(1894年6月1日 - 1901年10月22日)

松平康國(1901年10月23日 - 1902年2月28日)

石井勇(白露)(1902年3月1日 - 12月)

足立荒人(北鴎)(1903年1月1日 - 1906年11月20日)

竹越與三郎(三叉)(1906年11月20日 - 1907年6月27日)

足立荒人(1907年6月27日 - 1910年3月20日)

笹川潔(東花)(1910年3月20日 - 1913年12月28日)

五来欣造(素川)(1914年2月10日 - 1915年8月)

金崎賢(1915年8月 - 1918年3月30日)

伊達源一郎(1918年5月1日 - 1919年9月1日)

松山忠二郎(1919年9月1日 - 1921年)

大庭景秋(柯公)(1921年)

山崎光二郎(1930年3月 - 1933年1月15日)

高橋雄豺(1933年11月10日 - 1945年10月24日)

小林光政(1935年10月24日 - 1946年2月)

岩淵辰雄(1946年6月14日 - 10月19日)

馬場恒吾(1946年10月19日 - 1948年9月14日)

安田庄司(1948年9月14日 - 1949年5月20日)

小林與三次(1965年8月1日 - 1970年5月30日)

渡邉恒雄(1985年6月26日 - )[25]

組織
社会部

1953年には「読売新聞社会部」が第1回菊池寛賞を受賞(原四郎を中心とする同社会部の暗黒面摘発活動)、1955年には社会部記者の安部光恭が第3回菊池寛賞を受賞している。

また、読売新聞は、かつて立松和博本田靖春(東京本社)、黒田清大谷昭宏(大阪本社)といった辣腕記者を社会部に擁し「社会面に強い」と言われた。競馬の予想記事や漫画欄を作ったりして、庶民向きの読みやすい紙面作りを進めたが、その推進役は編集局長になった柴田勝衛である。…この柴田が正力社長の下で起死回生を狙ったのが、日本各地に縄張りを持って君臨していた、素性の知れたヤクザの親分衆36人を選んだ企画であり、『人物の森』風の人物評伝に仕立てて連載すると、それが評判になり売上げを大いに伸ばした。

連載が終わった年の正月のことである。紋付きハカマに正装した36人の親分衆が市電を止めて数寄屋橋の大通りに並び、読売新聞社の正面玄関に向かい土下座して一斉に頭を下げると、「柴田編集長にご挨拶したいので、読んで頂きたい」と申し入れた。…柴田は悠然と正面玄関に現れたのであり、その前にひれ伏した親分衆の代表が、「われわれのような日陰者を、こんな晴れがましい紙面で世間様に紹介くださり、光栄の至りに思う次第であります。このご恩は孫子末代まで忘れることはせず、…、われらの血筋が続く限り読売新聞の進展に死力を尽くすことを、ここで一同で誓約いたします」と言って、粛然と引き上げていったそうである。田辺則雄発行名儀人(昭和27年頃)の話によると、読売新聞の社会部は大躍進を遂げ、親分衆の協力による物凄い特ダネ続きとなり、下町衆の支持を受け売り上げを伸ばした。…社会部長の田辺則雄も、読売の名物男で、戸籍にバツ印(×)が11も付いており、幾ら日本の新聞界に人材がキラ星でも、前科11犯はそうザラにある話ではない。…親分衆から一目を置かれる存在だったという。こんな伝統があることが大きく影響して、朝日を始め他社は暗黒街の取材が仲々出来ないのに、読売の社会部だけはスクープを記録し続け、新聞界では未だに一頭突出するのだそうだ ? 藤原肇『朝日と読売の火ダルマ時代』国際評論社、1997年


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