読売テレビ
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11月21日 - 米RCA社製のスタジオカラーカメラを導入。[12]
11月30日 - 自社の第3スタジオの放送設備のカラー化が完了。[12]
12月4日 - カラー中継車が完成。[12]
12月13日 - 西日本初のスタジオカラーカメラによる音楽番組「ユア・カラーショー」を放送。[注釈 9][11][12]
1962年(昭和37年)6月10日 - 電電公社のマイクロ波使用の東京→北陸→大阪へのテレビ下り同時ネット回線がカラー化。これにより、日本テレビからのカラーでの同時ネット中継が可能となる。[13][14]
1964年(昭和39年)
2月2日 - 宝塚歌劇場にカラーカメラを持ち込み、「宝塚歌劇50周年記念公演 - レビューへの招待」をカラーで中継放送。[15]
3月8日 - 電電公社のマイクロ波使用の大阪→東京へのカラーテレビ上り同時ネット回線が開通。これを記念して、大相撲大阪場所の模様を、カラーで中継放送する。[16]
8月28日 - 開局6周年のこの日に、「カラー・キャンペーン・デー」として、1日6時間30分のカラー放送を行う。[15]
1965年(昭和42年)8月28日 - 開局7周年のこの日に、「カラー・キャンペーン・デー」として、自社制作の「ビクター歌謡ショー」を始め、1日7時間のカラー放送を行う。[17]
1967年(昭和42年)
4月1日 - 日本テレビとの編成制作協定(N-Y協定)を締結。
10月11日 - 東芝アンペックス社製の、2インチのハイバンドVTR(VR-2000)を購入、設置。[18]
11月1日 - 準教育局から一般局へ移行[19]。
1970年(昭和45年)3月14日 - この日に開会式を迎えた大阪万博を記念し、当時、日本民間放送連盟に加盟する全民放テレビ局が初の共同制作かつ同時放送を行う番組「幕開く日本万国博」のホスト兼送り出し放送局となる。[注釈 10][20]
1978年(昭和53年)
9月20日 - 1インチVTRを導入。[21]
9月22日 - 音声多重放送の実用化試験放送の予備免許を取得。[21][22]
9月30日 - 音声多重放送の実用化試験放送の本免許を取得。[22][23]
10月1日 - 音声多重放送の実用化試験放送を開始(日本テレビに続いて2局目。但し当初、ネット回線受けによる放送は2か国語放送のみで、ステレオは、ビデオ送りを含む自社送出のみ。)。[注釈 11][21][22][24]
11月11日 - この日の自社制作番組で、西宮球場からの中継「日米野球第10戦」にて、自社制作番組初のステレオ放送を実施。[22][25]
12月31日 - この日、日本テレビで全国ネットされた番組「ピンク・レディー汗と涙の大晦日150分!!」にて、ネット回線受けによる、初のステレオ放送を行う。[21][26]
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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