読売ジャイアンツ
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長嶋終身名誉監督に「史上最強打線」と名付けられた打線は、事実この年にローズが45本塁打で外国人選手史上初めて両リーグでの本塁打王に輝いたのに加え、小久保が球団史上初の右打者で40本塁打を記録する等年間259本塁打のプロ野球新記録[注釈 12]を樹立。しかし、259本塁打の新記録を達成したものの100打点を挙げた打者が一人もいなかった事やチーム最多盗塁が鈴木尚広の9と機動力をあまり駆使しなかった事で繋がりを欠き、チーム盗塁数は25と12球団で最も少なく、また平成に入ってからのワースト記録にもなっている。余談だが、12球団11位の日本ハムは45盗塁と、30盗塁未満は巨人のみである。投手陣においても上原が2.60で最優秀防御率を獲得したものの、その後が続かず規定投球回に到達したのはその上原だけでチーム防御率は4.50とワースト3位で完封勝ちは5とヤクルトに次ぐワースト2位タイと投手陣が打撃陣の頑張りを活かせず、成績は前年と同じ3位だった。近鉄・オリックスの合併問題に端を発したプロ野球再編問題では、球団スカウトが行った明治大学の投手一場靖弘への不正な金銭授受の責任を取り、渡邉恒雄がオーナー職を辞任した。また、テレビ視聴率も前年から低下した[25]
2005年

ポジション争いをやめさせ、打順を固定することにより1年を戦う打線として「不動明王打線」と名付けたが、高橋由、二岡智宏らが軒並み故障。この年から始まった「セ・パ交流戦」では4位(セ・リーグでは阪神に次いで2位)と好調だったものの、前年にヒューストン・アストロズで74試合に登板と抑えとして期待された新外国人のダン・ミセリが4月1日に行われた広島東洋との開幕戦で1点リードの9回に3点を奪われてセーブに失敗すると、次の登板もサヨナラ負けで2戦連続の敗戦投手と極度の不振で4試合に登板しただけで4月19日に球団史上最速で解雇となり、5月11日のオリックス戦で3・4月は8本塁打21打点と奮闘していた清原が11回裏に山口和男から頭部への死球を受けて以降は不振に陥る等、投手陣の崩壊やチームの空中分解により、8年ぶりのBクラスとなる5位に終わっただけではなく、9月28日の阪神戦で敗れた事でシーズン77敗目を記録し唯一最下位に沈んだ1975年の76敗を超えて球団史上ワーストの敗戦数を更新。4.80の防御率と737失点が何れも球団史上ワーストとなり、結局シーズンは62勝80敗4分と球団史上初のシーズン80敗となってしまった。さらに、昨年の球界再編騒動および原監督の辞任騒動が原因で人気が一気に下降した影響により、観客動員数の減少やテレビ視聴率の低下が顕著化する。そのため、日本テレビを筆頭に各キー局が地上波中継の延長短縮や中止があり、中継自体も深夜枠での録画放送および衛星放送への移行が進む様になった。この低迷によって2005年シーズン中からストーブリーグを見越した活動が表面化し、怪我と成績不振が重なったローズと清原は8月頃からチーム編成を外れ、監督候補についても、初の他球団出身監督として阪神のシニアディレクター星野仙一の名前があがった。星野シニアディレクター招聘の報道が表面化すると球団出身者のみが監督となってきた伝統を崩す事に一部OBやファンが反発。星野シニアディレクターは9月10日に会見を開き、阪神に残留する事を表明した。10月5日、堀内は成績不振の責任を取って任期を1年残し退任し(堀内自身は解任されたと述べている)[26]、翌年からの新監督として原が3年ぶりに復帰する事を正式に発表した。なお、堀内が監督を務めてから2年間の成績が133勝144敗7分となった為、監督が通算成績で負け越しのまま退任したのは球団史上初である。
第2次原監督時代

第1次では同じ時期に現役として活躍した選手が中心であったコーチ陣容を組んだ原監督だったが、第2次では彼らに加えて他球団での豊富な経験のある人材を求めた。2006年は近藤昭仁がヘッドコーチ、篠塚和典が守備走塁コーチに復帰。尾花高夫を投手コーチに招聘(しょうへい)、また1994年から2002年まで打撃コーチを務め、2003年より広島に戻っていた打撃コーチ・内田順三が復帰した。第2次原政権下、2006?2015年までの10シーズンでは優勝6回、日本一2回、795勝595敗51分(貯金200)という大きな成果を挙げ、特に横浜・DeNA戦においては154勝79敗6分(貯金75)と大得意にしていた。
2006年

投手陣ではオリックスを自由契約となったジェレミー・パウエル、FA宣言した豊田清(西武)、野口茂樹(中日)、野手陣ではロッテの李承Y、金銭トレードで過去ゴールデングラブ賞を4度受賞した小坂誠(ロッテ)を獲得し、その一方で昨年のシーズン途中に既に構想から外れていた清原とローズを自由契約で、豊田の人的補償として江藤を放出した。チーム方針として2005年のワールドシリーズを制したシカゴ・ホワイトソックスに倣い、「スモール・ベースボール」を掲げた。開幕当初は首位を独走していたが、5月に始まったセ・パ交流戦の途中で主力選手に負傷者が続出したことで失速することとなった。これに対して元西武の小関竜也を入団テストで、広島の木村拓也を交換トレードで、前年阪神を解雇されたジョージ・アリアスを来日させそれぞれ獲得するなど建て直しを図ったが、6 - 7月には8連敗、10連敗、9連敗と立て続けに大型連敗を喫した。最終的に昨年に次ぐワースト記録となる79敗を喫し、チーム防御率は1点以上の改善があったものの打撃不調(チーム打率最下位)で4位に終わり、球団史上初の4年連続完全V逸と2年連続Bクラスとなった。交流戦での低迷(13勝23敗で11位)、中日戦での6勝16敗が最大の敗因であった。そんな中、投手では内海哲也が防御率4位(2.51)、打撃では李承ヨプが打率2位(.323)・本塁打2位(41本)と大黒柱の働きであった。シーズン後、仁志敏久を横浜に放出、小久保がFAでソフトバンクに放出したが、ソフトバンクを戦力外となったベテランの大道典嘉、オリックスの谷佳知、日本ハムの小笠原道大を獲得したほか、横浜の門倉健もFA獲得した。一方、門倉の加入に伴って補償選手として工藤公康を放出することとなった。
2007年

5月2日に行われたナゴヤドームの中日5回戦でプロ野球史上初となる球団通算5,000勝を達成した。これまで主にクリーンナップを打っていた高橋由を1番に、怪我で出遅れていた上原浩治を先発からクローザーとして起用するなどの大胆な配置転換を行った。これが成功し、前年のような大型連敗もなく安定した戦いを続けた。鬼門だった交流戦も2位でクリア。そして9月23日の横浜戦に勝利し、この年から導入されたクライマックスシリーズの出場権をセ・リーグ一番乗りで獲得。中日・阪神との三つ巴のデッドヒートの末、10月2日のヤクルト戦でサヨナラ勝ちし、5年ぶりのリーグ優勝を達成した。しかし、同年より導入されたクライマックスシリーズ第2ステージで、第1ステージで阪神を破った中日に0勝3敗でストレート負け。日本シリーズ出場権を逃し、史上初の「リーグ優勝しながら日本シリーズに出場できないチーム」となっている[注釈 13]


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