復帰した水原茂を監督に据えて、リーグ分立1年目は8球団中3位。
1951年
シーズン途中に来日し、入団した与那嶺要の活躍もあって2リーグ分裂後初優勝およびセリーグ初代・日本一球団となる。
1952年
8月8日、対広島11回戦の勝利で日本プロ野球史上初の公式戦通算1000勝。10月3日、後楽園球場で行われた対国鉄20回戦で15対2と快勝したことによりリーグ優勝[14]、日本シリーズも1リーグ時代からの宿敵・南海ホークスを後楽園で下し、2リーグ分裂後初のリーグ優勝・日本一連覇となった。
この年は、各球団の主催試合にフランチャイズを導入した最初のペナントレースだったため[15]、巨人は当時のセ・リーグ7球団で「正式な本拠地でリーグ優勝・日本一を決めた最初のセリーグ球団」となった[16]。
1953年
初めての海外キャンプをサンタマリアで行う。このシーズンは、開幕から1回も首位から転落することなくリーグ3連覇を達成。シーズンを通しての首位完全独走で優勝したのは球団史上唯一の記録である。日本シリーズでは、南海を3年連続で下し、日本シリーズ3連覇を達成。第2次黄金時代を築き上げた。
この年は、2024年現在のようにセ・リーグ6球団となった最初のペナントレースだったため、巨人は「セリーグ6球団初代・優勝球団」なった[17]。
1954年
リーグ優勝。日本シリーズでは南海との対戦となり、1勝3敗から3連勝。4勝3敗で逆転日本一を達成する。この頃から第2次黄金時代を支えた千葉茂、川上哲治らに衰えが目立ち始め、水原は新旧交代をしなければならなくなった。
1956年
リーグ優勝を果たし、日本シリーズでは水原茂と入れ替わりに巨人を退団した三原脩が監督で率いる西鉄ライオンズとの対決となる。以後日本シリーズでは、3年連続で巨人は西鉄との対決となり、両者の戦いは「巌流島の決戦」とマスコミに喧伝された。
1958年
立教大学から長嶋茂雄が入団し、初年度から3割29本37盗塁の活躍を見せる。日本シリーズでは、第1戦から3連勝するも、第4戦から稲尾和久の力投などで4連敗を喫し、3勝4敗の逆転で3年連続で西鉄に敗退。この年限りで川上哲治が現役引退している[18]。
1959年
「天覧試合」も参照
6月25日の阪神11回戦(後楽園)はプロ野球史上初めての天覧試合となった。この試合で王・長嶋がはじめて2人ともホームランを打ち(ONアベック弾第1号)、9回ウラには長嶋が阪神タイガース・村山実からこの日2本目となるサヨナラホームランを放ち、5-4で勝利を収めた。成績はリーグ優勝を果たし4連覇。日本シリーズでは南海と対戦するが、エース・杉浦忠の前に打線が沈黙、4連敗のストレート負けで敗退。
1960年
三原脩が当時6年連続で最下位だった大洋ホエールズの監督に就任し、再び「巌流島の対決」と呼ばれる。大洋は三原の手腕によって巨人と優勝争いを演じ、ついに巨人を破ってリーグ優勝。巨人は大洋と4.5ゲーム差の2位に終わった。シーズン終了後、水原茂は監督を勇退した。
川上監督時代
1961年
川上哲治がヘッドコーチから昇格して監督に就任する。就任1年目ながら打率と本塁打の二冠を獲得した長嶋を中心に2位中日と1ゲーム差でリーグ優勝、日本シリーズでも南海を破って6年ぶりに日本一を達成。
1962年
この年から一本足打法を始めた王が本塁打王と打点王を獲得したが、長嶋の低迷と投手の駒不足もあって混戦のセ・リーグで勝率.515ながら4位、2リーグ分立後初めてのBクラスに終わる。
1963年