読売ジャイアンツ
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530藤本英雄[注釈 36]1944年1946年
読売ジャイアンツ630中島治康(第2次)[注釈 37]1946年1947年
731三原修[注釈 38]1947年1949年
830水原茂[注釈 39]1950年1960年
916、77川上哲治◎1961年1974年
1090長嶋茂雄1975年1980年
1173藤田元司[注釈 40]1981年1983年
121王貞治1984年1988年
1373藤田元司(第2次)◎1989年1992年
1433長嶋茂雄(第2次)◎1993年(1999年)
3[注釈 41](2000年)2001年
1583原辰徳◎2002年2003年
1688堀内恒夫2004年2005年
1788原辰徳(第2次)◎[注釈 42]2006年2015年
1824高橋由伸2016年2018年
1983原辰徳(第3次)2019年2023年
2083阿部慎之助2024年

終身名誉監督

長嶋茂雄現在、プロ野球界で名誉監督(長嶋茂雄は終身名誉監督)の名誉称号を贈られたのは全球団で長嶋茂雄と野村克也(元東北楽天ゴールデンイーグルス名誉監督)のみである[注釈 43]

役員「読売ジャイアンツ#球団運営会社」も参照

取締役オーナー - 山口寿一

取締役オーナー代行 - 松田昇

代表取締役社長 - 今村司

専務取締役終身名誉監督 - 長嶋茂雄

取締役 - 村岡彰敏

取締役 - 溝口烈

取締役総務本部長兼事業本部長・連盟・コンプライアンス担当 - 星春海

常勤監査役 - 田中隆之

監査役 - 真砂靖

[89]
永久欠番

1:
王貞治(1989年 - )本塁打世界新記録(868本)の功績を称えて決定。巨人では選手、助監督そして監督と通算30年使用していた。

3:長嶋茂雄(1974年 - )第二次監督時代の2000年から2年間復活した。

4:黒沢俊夫(1947年 - )現役中に腸チフスで死去。後述の沢村と共に日本プロ野球初の永久欠番となった。

14:沢村栄治(1947年 - )太平洋戦争で戦死。戦後今泉勝義坂本茂がつけていたが、上記黒沢と同時に永久欠番となった。なお2014年3月10日、沢村の故郷である三重県伊勢市伊勢市倉田山公園野球場で65年ぶりに行われた阪神とのオープン戦において、原辰徳監督はじめ全選手が永久欠番「14」をつけ、阪神はOBで沢村と同郷の西村幸生投手の背番号「19」を全選手がつけて試合が行われた。

16:川上哲治(1965年 - )引退後も着用していたが、1965年1月の野球殿堂入り決定後に永久欠番になった。当時監督だった川上はこの年から背番号を「77」に変更。

34:金田正一(1970年 - )球界初の通算400勝の功績を称え制定。

なお、2006年シーズン開幕よりこれら永久欠番の選手のユニフォームをかたどった(背番号のみで選手名ローマ字表記は無し)像を東京ドームの外野スタンド後方部の支柱部に設置。除幕式が同年開幕戦に行われ、本人や遺族等が招かれた[注釈 44]
沢村栄治賞受賞者

1947年に巨人の初代エースである沢村栄治の功績が称えられ、先発投手が獲得できる最高峰の表彰である沢村栄治賞が制定された[90]。巨人では歴代で14人が受賞(沢村が兵役で負傷後、ヴィクトル・スタルヒンが巨人のエースになっているが、この時、沢村賞は制定されていなかった[91]。また、歴代の巨人投手の受賞者で生え抜き投手では無いのは別所毅彦のみである)。巨人の歴代投手で複数回受賞しているのは堀内恒夫高橋一三斎藤雅樹上原浩治菅野智之の5人(他球団でも受賞している別所毅彦、小林繁も含めると7人)いる[90]。中でも斎藤が史上4人目の3回受賞し、プロ野球最多タイ記録となっている。

中尾碩志 :1回(1948年)

藤本英雄 :1回(1949年)

大友工 :1回(1953年)

別所毅彦 :1回(1955年) ※1947年の南海時代も含めると2回。

堀本律雄 :1回(1960年)

伊藤芳明 :1回(1963年)


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