読売ジャイアンツ
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^ 後楽園における巨人の初試合は翌12日の対大阪戦で、8対9で敗れている。
^ それまでも読売新聞との関係は深かったが、当時は鉄道事業者である京成電鉄が筆頭株主であり、球団主要株主に読売新聞社が名を連ねることはなく、経営上も一応独立していた。また、京成電鉄も筆頭株主だったとは言え、球団経営には一切関与せず、株を保有していたに過ぎなかった。現在の読売巨人軍は親会社である読売新聞グループ本社(持株会社)の完全子会社(事業子会社)であり、事実上読売新聞の一事業である。
^ 同一監督によるリーグ最下位の翌年にリーグ優勝は、日本プロ野球史上初。後に大阪近鉄バファローズ梨田昌孝が2001年に達成している。
^ 読売新聞で約30万部、報知新聞で約5万部の売上部数減少。
^ 同一球場での日本シリーズは日本プロ野球史上唯一。
^ 近鉄の第3戦勝利後、先発加藤哲郎が「巨人は(当時低迷していた)ロッテより弱い」と発言したことが、巨人を怒らせ逆転のきっかけとなったとされるが、加藤自身はそのような事は言ってないと発言している[20]
^ セ・リーグに現存する6球団ではこの時が初で、2000年・2007年の優勝もサヨナラ勝利で決めている。
^ 同率2位の2球団で、前年は巨人は4位・阪神は最下位で、扱いは巨人は2位・阪神は3位である。とはいえ、この2球団で優勝争いから先に脱落したのは巨人の方である。
^ 西鉄時代を含めれば、1963年以来31年ぶりの日本シリーズ勝利となる。
^ 辞任に際してのセレモニーがないことに、阪神の星野仙一監督(当時)がたまたま最終試合は甲子園球場での試合だったために、「せめて花束贈呈をして、花道を飾りたい」と球団に直訴。そして、最後の試合を終えた後、球団史上、前代未聞の相手本拠地での辞任セレモニーが執り行なわれた。星野監督の花束贈呈のあと、原監督は男泣きをし、スピーチをした。そして、阪神ファンに温かく迎えられて無事にセレモニーを終えることが出来た。
^ それまでのプロ野球最高記録は1980年の近鉄の239本、セ・リーグ最高記録は1985年の阪神の219本だった。
^ 2004年と2005年のパ・リーグでシーズン1位のダイエー(ソフトバンク)ホークスがプレーオフで敗退し日本シリーズ未出場であるが、これはプレーオフ勝利チームをその年の優勝チームと定めていたためである。なお2010年のソフトバンク、2014年の巨人、2017年の広島、2018年と2019年の西武がいずれもリーグ優勝しながら、それぞれCSでロッテ、DeNA、ソフトバンクに敗れ日本シリーズ出場を逃している。
^ 7月8日時点でのゲーム差。日本プロ野球全体では1963年の西鉄ライオンズに次ぐ2番目。
^ その日は神宮球場で優勝を決めたのは史上初である。
^ この年の7月、球団ワースト新記録となる12試合連続2桁被安打を記録。
^ これは東京ドームの代替ではなく、震災発生前よりこの日の宇部での試合が決まっていた。
^ 過去に獲得したFA宣言選手の中で前年のMVPを獲得したのは2006年の小笠原以来だが、小笠原がいた日本ハムはパ・リーグの為、同一リーグのMVPと平成生まれのFA選手を獲得したのは史上初である。
^ マシソンはカナダ代表として東京五輪までプレー。
^ 亀井が9月25日、大竹が9月27日、中川が10月9日、増田が10月13日にいずれもケガで離脱し、4人共出場選手登録を抹消された10月13日から24日にかけての試合は3勝5敗2分である。
^ 因みに、これまで達成した球場とその内容は川上は中日スタヂアムで左安打、長嶋と柴田はいずれも神宮球場で左安打、王は甲子園球場で右安打、阿部は広島市のMAZDA Zoom-Zoom スタジアムで右安打だったため、坂本が東京ドームで二塁打以上の長打(実際に二塁打)で決めたのはいずれも球団史上初である。
^ シーズンの勝率は.598で6月から9月までは最低でも8月の.583止まりと6割から7割の高い水準をキープしていたが、10月の勝率は.417、11月の勝率は.429である。
^ 勝ち越しが15以上あった状況から勝率が5割に戻ったチームとその試合数は1942年の南海(27試合)、1948年の阪神(42試合)、1952年の大洋(61試合)、1959年の東映(37試合)、2012年のロッテ(56試合)と史上6チーム目である。
^ なおプロ野球で新人が開幕戦でセーブを挙げたのは1982年の山沖之彦(阪急)以来2人目である。
^ なお球団では72試合目で達成した1993年石毛博史2013年の西村を抜いて球団史上最速、プロ野球全体でも2017年に54試合で記録した楽天松井裕樹に次いで2番目である。
^ これ以前にも5月6日に堀田が、翌日にシューメーカーがいずれも村上宗隆に満塁弾を打たれている。
^ 新外国人が同じ年に20本塁打に到達したのは、球団史上初である。
^ 前監督の高橋由伸が35本、作戦兼ディフェンスチーフコーチの阿部が33本、日本ハムからFAで移籍した小笠原が31本、李承Yが30本、二軍監督の二岡が20本である。
^ なお、その時の監督が05年は堀内、06年は原であり、21年と22年は原が務めていたので同一監督による2年連続シーズン負け越しは球団史上初である。
^ シーズンに4試合も0-1で敗れたのは62年5月、68年7月、71年7月、89年9月を抜いて球団史上最多で、プロ野球史上最多タイでもある。
^ 厳密には1938年のスタルヒン、1999年のガルベス、2009年のグライシンガー、2017年のマイコラスに次いで5人目だが、スタルヒンは1934年に前身の大日本東京野球倶楽部に、ガルベスは1996年に、グライシンガーは前年の2008年に、マイコラスは2015年にいずれも入団して1年は経っている為、新外国人が開幕投手を務めたのは球団史上初である。
^ アジアシリーズの振り替え大会。
^ 2021年は新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から延長戦が無かった。延長戦がある年では1978年の16分が最多。
^ 1954年にコーチ、1955年に技術顧問。
^ 応召で退任。
^ 選手兼任。中島就任後は選手専任に復帰、1956年・1957年にコーチ・二軍監督。
^ 選手兼任。
^ 1949年4月15日から7月23日は中島治康が代行。
^ 1950年は選手兼任。1960年10月は川上哲治が代行。
^ 1981年7月1日は王貞治が代行。
^ この年FAで移籍した江藤が背番号33をつけるため、自らの永久欠番の3をつけた。
^ 2014年5月5日、2015年4月15日 - 19日は川相昌弘が代行。
^ 野村克也は2012年に名誉監督を退任した。
^ 当時福岡ソフトバンクホークス監督だった王は現場を離れられないということで次女の王理恵が代理出席。なお、黒沢の遺族は消息がつかめなかったという。
^ このラグランスリーブのユニフォームを製作したのは、スポーツ用品店でなく、「銀座テーラー」という老舗の紳士服専門店であった。
^ 銀座テーラー製→玉澤(TAMAZAWA)製→デサント製と時期により異なる。
^ 協約上は正式に公式戦でも使用可能なユニフォームとして登録されていた[97]

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