「誤書」は写本の時代からあったが、誤植の歴史は活版印刷の歴史と同時に始まった。ヨハネス・グーテンベルクの印刷した『グーテンベルク聖書』は西洋で初めての本格的な活版印刷物とみなされ、出版史における不滅の金字塔であるが、その中にも多数の誤植がある。42行聖書はたびたび紙数の都合で行数を変更しており、組版の組み替えなどによる多数の混乱が生じていた。そのため、この聖書の研究では、誤植と訂正の状況を追う研究が一分野をなしている。
洋の東西を問わず、王室や政府、政教分離が成されていない国における宗教書にまつわる誤植では厳しい措置がとられることが多く、キリスト教の聖書絡みのものでも後述するようなものが知られているが、戦前の大日本帝国でも、皇室関連の記事で誤植があると「不敬」として厳しく処罰された。1942年、富田常雄作『軍神杉本中佐』で「天皇陛下」を「天皇階下」と誤植した童話春秋社
はこのために出版停止の憂き目に遭った。その対策として、ある新聞社では「天皇陛下」の四字を一つにまとめた特注の活字も製作されたという。誤植の形態も、時代や技術革新によって変化している。出版物が活版印刷中心の時代には、版の組立時の似た活字の取り違えが多かったが、20世紀後半に文章執筆がワードプロセッサもしくはワープロソフトなどによるものが主流になってからは、かな・漢字変換の際の誤変換や単漢字辞書検索での選択ミスなどによる、同音異義語や似た読みの取り違えが増加した。OCRスキャナによる文書読み取りでは、しばしば形状が似た字の読み違えが生じる。またそのほかに、文字コードの外字領域などがわずかに異なる環境で文書の作成とDTP編集を別々に行って印刷に出したところ、それらの文字が別の文字に置き換わってしまう場合、また誤って1バイト文字と2バイト文字を混用した場合(例: 1240個、appleなど)、同一でなければならない文書内のフォントサイズ(ABCDEなど)や種類を誤って混用した場合(ゴシックと明朝体、あるいはMSゴシックと平成ゴシックなど)などにも、誤植が発生する原因になる。
さまざまな分野での誤植
聖書の誤植姦淫聖書
グーテンベルク聖書から始まった近代出版史は、誤植の歴史でもある。聖書には誤植史上記念碑的なものが多々ある[5][6]。詳細は「聖書の誤記」を参照 日本の法令の公布その他公示手続きは、判例上、「特に国家がこれに代わる他の適当な方法をもつて法令の公布を行うものであることが明らかな場合でない限りは、法令の公布は従前通り、官報をもつてせられるものと解するのが相当で」[7]あるとされているが、官報にも誤植が散見する。 官報の誤植には、大別して「原稿誤り」および「印刷誤り」の2種類が存在する。原稿誤りとは、国の機関から独立行政法人国立印刷局に対して官報への掲載を依頼する際に、国の機関から送付される原稿に誤りがある場合を指す。原稿誤りが発見された場合、掲載を依頼した国の機関が、国立印刷局に対して職権により正誤欄への掲載を依頼することとなる。対して印刷誤りは、原稿に誤りはなく、国立印刷局が官報を印刷する際に誤りが生じた場合を指す。印刷誤りの場合、国立印刷局または掲載を依頼した国の機関が正誤の手続きを行うこととなる。 官報の誤植には、掲載されている法令の効力に重大な影響を及ぼす可能性がある。1948年に起きた食糧管理法違反事件では、1947年12月30日に公示された農林省告示[8]で、本来「いんげん」(改正前の告示におけるテボーに相当する)と記載するべきところが、農林省の原稿誤りにより、「なたまめ」と誤記したことが問題となり、1948年4月7日に農林事務官(国の機関である農林省の事務系職員)名義で官報に正誤[9]を掲載した。 日本の法令では、前述のとおり官報によって公布されることとなっており、また、法令の効力について、判例は、「成文の法令が一般的に国民に対し現実にその拘束力を発動する(施行せられる)ためには、その法令の内容が一般国民の知りうべき状態に置かれることが前提要件とせられる」[10]としていることから、本件では、官報正誤による法令の効力及び官報正誤以前の法令の効力について問題とされた。 本件について最高裁判所は、「官報に公示するがごとき公示手続上の過誤は、農林事務官においてこれが正誤の手続を執ることは当然その権限内にあるものと解するを相当とするから、前示正誤は正当であつて、少くとも官報正誤の日以後における本件「テボー」の輸送委託をした行為にはその正誤された告示が適用されるものといわなければならない」[11]とし、官報正誤による法令の効力について、少なくとも官報正誤の日以後については正誤された告示が適用されると判示している。
姦淫聖書
1631年にイギリス・ロンドンで印刷業者ロバート・バーカー(英語版)によって印刷された欽定訳聖書は、のちにThe Wicked Bible、すなわち「姦淫聖書(邪悪聖書)」と呼ばれた。それは出エジプト記におけるモーセの十戒の第七条、「Thou shalt not commit adultery」(汝姦淫するなかれ)から、否定のnotが抜け落ちたために、「汝姦淫すべし」となり、神が人々に姦淫を勧める聖書となってしまったからである。このためバーカーは高額の罰金を科されるも、支払えずに投獄されて獄死し、聖書は回収された。しかし、密かに隠して取っておいた者が何人もおり、現在も世界に11部残っているとされる。
馬鹿者聖書
1763年の欽定訳聖書では、詩編の「the fool hath said in his heart there is no God」(愚かな者は心のうちに神はないと言う)という一節を、noを落として「there is a God」(神はある)と誤植し、キリスト教徒で信仰の厚い者こそが馬鹿で悪であるという趣旨になった。印刷者には高額の罰金が科され、問題の聖書は回収された。1580年にドイツで刊行された聖書では、出版屋の妻がひそかに印刷所に忍び入り、創世記の「Und er soll dein Herr sein.」(彼は爾の主たるべし)とあるところを、勝手に活字を組み替えて「Und er soll dein Narr sein.」(「彼は爾の馬鹿者たるべし」)とした。この聖書は、ヴォルフェンビュッテ(英語版)のアウグスト大公図書館(ドイツ語版)に所蔵されている。
酢の聖書
1717年刊行のクラレンドン・プレス版の聖書は、ルカ福音書第20章の表題を、「the Parable of the Vineyard」(葡萄畑の寓話)とすべきところを、「the Parable of the Vinegar」(酢の寓話)と誤植したため、「酢の聖書」と呼ばれている。
日本の法令の誤植