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偉大な詩は、まさにその言葉によって聴衆や読者に思考と力強い感情を喚び起こすことで他から抜きん出る。たとえばハンガリーのヨージェフ・アティッラのような詩人たちは、センテンスに結合された言葉によって言葉自体の意味の総和よりも大きな意味に到達する非凡な詩を書いている。そうした言葉の中には日常会話で使われる諺になったものもある。時代や文化が変われば言葉の意味も変化するので、詩の当初の美や力を味わうのは難しい。
歴史アッカド語で書かれたギルガメシュ叙事詩の「大洪水」の石板(BC2千年紀頃)

芸術の一形式としての詩は文字読み書きよりも先に存在したとも考えられる[注釈 4]古代インドの『ヴェーダ』(紀元前1700-1200年)やザラスシュトラの『ガーサー』(紀元前1200-900年)から『オデュッセイア』(紀元前800-675年)に至る古代の作品の多くは、前史時代や古代の社会において記憶と口頭による伝達を補助するために詩の形で作られたものと思われる[4]。詩は文字を持つ文明の大半において最初期の記録の中に出現しており、初期のモノリスルーン石碑石碑などから詩の断片が発見されている。ヴァルミキ。『ラーマーヤナ』の作者とされる

現存する最古の詩は紀元前三千年紀のシュメールメソポタミア、現イラク)の『ギルガメシュ叙事詩』であり、粘土板や後にはパピルス楔形文字で書かれていた[12]。その他の古代の叙事詩にはギリシア語の『イーリアス』と『オデュッセイア』、アヴェスター語の『ガーサー』と『ヤスナ』、古代ローマ民族叙事詩ウェルギリウスの『アエネーイス』、インドの『ラーマーヤナ』と『マハーバーラタ』などがある。

詩を詩として成立させている形式上の特徴は何か、良い詩と悪い詩との分かれ目は何かを決定しようという古代の思索家たちの努力は「詩学」――詩の美学的研究を生み出した。古代社会の中には、中国の儒教五経の1つである『詩経』に見られるように審美的のみならず儀式的にも重要な詩的作品の規範を発達させたものもあった。近年でも、思索家たちはチョーサーの『カンタベリー物語』から松尾芭蕉の『おくのほそ道』までの形式上の差異や、タナハの宗教詩からロマンチック・ラブ詩やラップに至るまでのコンテクスト上の差異を包括できる定義を求めて苦闘している[13]

コンテクストは詩学にとって、また詩のジャンルや形式の発達にとって決定的に重要である。『ギルガメシュ叙事詩』やフェルドウスィーの『シャー・ナーメ[14]のような歴史的な出来事を叙事詩として記録した詩は必然的に長く物語的になる一方で、典礼のために用いられる詩(聖歌詩篇スーラハディース)は霊感を与えるような調子を持ち、またエレジーや悲劇は深い感情的な反応を引き起こすことを意図される。その他のコンテクストとしてはグレゴリオ聖歌、公的・外交的な演説[注釈 5]政治的レトリックや毒舌[注釈 6]、屈託のない童謡やナンセンス詩、さらには医学テクストなどもある[注釈 7]

ポーランドの美学史家ヴワディスワフ・タタルキェヴィチ (en:W?adys?aw Tatarkiewicz) は論文「詩の概念」において、事実上「詩の2つの概念」であるところのものの進化を追跡している。タタルキェヴィチは「詩」という言葉が2つの別個なものに適用されており、この両者は、詩人ポール・ヴァレリーが観察したように、「ある地点で結合する。詩は……言語に基づく芸術である。しかし詩にはまたより広い意味もあり……それは明確なものではないので定義が困難である。詩はある種の『精神の状態』を表現する」[15]のだと指摘している。
西洋の伝統アリストテレス

古代の思索家たちは詩を定義しその質を評価する手段として分類を用いた。とりわけ、アリストテレス詩学』の現存する断片は詩の3つのジャンル――叙事詩、喜劇、悲劇――を記述し、それぞれのジャンルでその基礎となる目的に基づき最高品位の詩を見分けるための規則を展開している[16]。後世の美学者たちは喜劇悲劇を劇詩の下位ジャンルとして扱い、叙事詩抒情詩劇詩を3大ジャンルとした。ジョン・キーツ

アリストテレスの仕事はルネサンス期のヨーロッパのみならず、イスラム黄金時代の中東全域[注釈 8]にも影響を及ぼした[17]。後の詩人や美学者たちはしばしば詩を散文と区別し、散文とは反対のものであるとして詩を定義した。散文は概ね、論理的な説明への傾向と線形的な物語構造を持つ著作として理解されていた[注釈 9]

これは詩が非論理的であったり物語を持たなかったりすることを意味するのではなく、むしろ詩とは論理的もしくは物語的な思考過程に忙殺されることなく美や崇高を表現する試みなのである。イギリスのロマン主義詩人ジョン・キーツはこの論理からの脱出をネガティブ・ケイパビリティ(en:Negative Capability、「消極的能力」)と呼んだ[18][注釈 10]。形式は抽象的なものであり意味上の論理とは別個なものであるので、この「ロマン主義的」なアプローチは形式を詩の成功の鍵となる要素と見ていた。このアプローチは20世紀に至るまで影響を残した。

この時期にはまた、ヨーロッパの植民地主義の拡大とそれに伴う世界的な交易の増大のためもあり、さまざまな詩の伝統がさらに相互に影響を与え合った。翻訳のブームに加え、ロマン主義の時期には数多くの古代の作品が再発見された。
20世紀の論争アーチボルド・マクリーシュ

20世紀の文学理論には、散文と詩との対比にはあまり重点を置かず、単純に言語を用いて創造する者としての詩人と、詩人が創造するものとしての詩に焦点を合わせるものもあった。創造者としての詩人という基礎的な概念は珍しいものではなく、現代詩人の中には言葉による詩の創造と大工仕事のような他の媒体による創造活動との間に本質的に区別を置かない者もいる[19]。さらには詩を定義しようという試み自体が見当違いであるとして異議を唱える者もあり、アーチボルド・マクリーシュは自身の逆説的な詩『詩論』(en:Ars Poetica) をこう結んでいる:「詩は意味してはならない/存在するのだ。」[注釈 11]

詩の定義や他の文学ジャンルとの区別を巡る論争は詩の形式の役割を巡る議論と表裏一体である。20世紀前半に始まった詩の伝統的な形式と構造の拒絶は、詩の伝統的な定義や詩と散文の区別(特に散文詩と詩的散文のような例)の持つ目的や意味の疑問視と同時に進行した。数多くの現代詩人は、伝統的でない形式や、伝統的には散文と見做されるような形式を用いて書いたが、その作品には概して詩語や、韻律によらない手段で確立されたリズムやトーンが染み込んでいた[20]。現代派の中にも詩の構造の衰退に対する形式主義的な反動があったが、こうした動きでは古い形式と構造の再生だけでなく、新しい形式構造と統合の開拓にも焦点が当てられていた[21]

さらに最近では、ポストモダニズムはマクリーシュのコンセプトを全面的に受け入れ、散文と詩との境界や、さらには詩の諸ジャンル間の境界にも文化的な遺物としての意味しかないと見做すようになっている。ポストモダニズムはモダニズムにおける詩人の創造的役割の強調からさらに進み、テクストの読者の役割を強調(解釈学)し、詩が読まれるところの複雑な文化的な網の目に光を当てた[22]。今日では、世界中で、詩は他の文化や過去から形式や詩語を取り入れており、かつては例えば西洋の古典体系のような1つの伝統の中では理に適っていた定義と分類の試みにさらなる混乱を引き起こしている。


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