詩経
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ただし、いずれも現代は亡んでおり、唯一『韓詩外伝』のみが伝わる[18][注釈 1]
毛詩

一方、今文で書かれていた「三家詩」とは別に、河間献王劉徳が古書を収集した際、秦代以前の古い字体である「古文」で書かれたテキストが発見された。これは荀子から魯の毛亨(中国語版)に伝えられたものであった。劉徳は毛萇(中国語版)を博士とし、これも『詩経』のテキスト・解釈として用いられるようになった。この古文系統の『詩経』のテキストおよび毛氏の解釈を『毛詩』という[19]

『毛詩』には、詩の本文に加えて、毛氏の解釈を伝える「毛伝」ならびにそれぞれの詩の大意を記した「詩序」(大序・小序)が附されていた[20]。「詩序」の作者は諸説あり、『後漢書』は衛宏(中国語版)の作であるとし、『隋書』は子夏が作り毛氏・衛宏が潤色したとする[21]

その後、『毛詩』は前漢の間は貫長卿・解延年・徐敖(中国語版)・陳?・謝曼卿を通して伝えられた。後漢に入り古文学が盛んになると、衛宏・徐巡・賈逵鄭衆らを通して伝えられ、馬融は『毛詩』に注釈を附し、さらにその弟子の鄭玄が『毛詩』に「箋」と呼ばれる注釈を作った(鄭箋)[22]。『毛詩』と鄭箋は、唐代の『五経正義』に採用されて主流のテキスト・解釈となった[23]
構成.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。詩経『詩経』の十五の国風の所在地[24]。周南・召南の場所は諸説ある。「十五国風」も参照

『詩経』には合計311篇の詩が収められているが、このうち6篇は題名だけで本文は伝わっていない[1]。それぞれの詩のタイトルは、多くの場合は最初の句から数文字(多くは二字)を選んでそのまま題名にしたものであり、内容を要約したものではない[25]。これら311篇の詩は、「風」「雅」「頌」の三つの区分の下に収録されている。

「国風」とも。各国の民間で歌われた詩で、国ごとに十五に分けられている。計160篇[26]。周南・召南(周公召公の封地の詩。場所は諸説ある)、?風・?風・衛風(内容は全て衛風、衛国の詩)、王風(東周の都を中心とする詩)、鄭風(の詩)、風、風、風、風、風、風、風、?風(周の先祖公劉以下の故地の?)の15に区分される[27]

中央朝廷の正しい音楽。「小雅」(31篇)と「大雅」(105篇)に分かれる[26]。「大雅」が周王朝の朝廷・宗廟に用いる詩であるのに対し、「小雅」は上下を通じて用いられる詩で、政事の大小・道徳の存否・辞気の厚薄・成立の豊薄に相違があるとされる[28]。「雅」は「正」の意味で正楽の歌を指すとする説と、「夏」の意味で中国中原から生まれた歌であることを示すとする説などがある[29]。小雅・大雅では十篇ごとを一組としてその最初の詩の名前を冠して「〇〇之什」として区分されている[30]。小雅は鹿鳴之什・南有嘉魚之什・鴻鴈之什・節南山之什・谷風之什・甫田之什・魚藻之什、大雅は文王之什・生民之什・蕩之什に分かれる[31]

朱熹は「宗廟之楽歌」と述べており[32]宗廟で祖先の功業を褒めたたえるための歌舞をともなう詩のこと[26][33]。「頌」という言葉は、「褒め歌」の意味であるという説と、舞いの様子を表したものとする説がある[32]。頌は、周頌・魯頌・商頌に分かれ、周頌は清廟之什・臣工之什・閔予小子之什の三つに分かれる[34]

松本雅明は、シンプルな畳詠体が多い国風が最も古く、雅・頌がこれに次いで成立したと主張するが、これに対して白川静は、風・雅・頌ではそれぞれ伝承過程が異なるため単純な比較はできないと述べている[35]小南一郎は、梁啓超の説を踏まえて、韻を踏まず、また章分けも存在しない「周頌」の作品群が最古であり、次いで雅・風が成立したと主張している[35]

なお、このうち「周南」「召南」を「南」(二南)として国風から独立させる分け方もあり、これは宋代の儒者が唱え始めた[36]。この「南」の意味は、文王の教化が南へ向かうことを表すとする説(毛詩)と、詩体の一種とする説(朱熹)、楽歌・楽舞と結びついた楽体とする説(鄭樵・程大昌)、「南」は「男」の意味とし爵位を表すとする説(牟庭)などがある[37]
形式

『詩経』に収められている詩は、基本的に四字句を取り、単調で素朴なリズムを奏でる[38]。この四字句は基本的には二字+二字の形を取る[30]

「周頌」を除けば、どれも数章からなっていて、国風で長いものは?風「七月」の8章(各章11句)、雅で長いものは大雅「桑柔」の16章(合計120句)といった例がある[39]。全体の傾向としては、国風は短めで、3章で各章4句、2章で各章6句といった作例が多い[39]。雅になると長篇も多く、章の句数が前後で変わる者も多い。小雅「正月」は前8章が各8句、後5章が各6句である。また、大雅には「大明」のように6句と8句が交互に入り混じる形、「生民」のように10句と8句が入り混じる形も見られる[40]
押韻

『詩経』の詩には「押韻」が見られるが、『詩経』の段階では押韻の位置が固定化していないため、どの字が押韻しているのか特定することは容易ではない[41]。『詩経』の押韻の一例は以下である。

?風・柏舟「汎彼柏舟、在彼中河、?彼両髦、実維我儀」 - 一句の起首に韻を用いる例[42]

?風・??「??在東」、小雅・賓之初筵「有壬有林」 - 中間に韻を用いる例[42]

周南・巻耳「采采巻耳、不盈頃筐。嗟我懐人、ゥ彼周行。」 - 偶数句末に韻を用いる例[42]

『詩経』の押韻は後世の規則に比べるとかなり緩やかではあるが、偶数句末の押韻といった後世の押韻法の類型はすでに現れている[42]。特に「国風」の場合、一篇の詩の中で、前の章とほぼ同一の句が脚韻だけを差し替えて繰り返される形(畳詠体)を取るものが多い[30]

こうした『詩経』の押韻の解明は、清朝考証学音韻学によって推し進められた[43]中国語の音は時代によって変化しており、『詩経』の押韻は上古音に従うため、現代の感覚では想像しがたい押韻の例も多い[41]。以下がその例である。

周南・關雎「参差?菜、左右采之、窈窕淑女、琴瑟友之」この三字は古韻では同じ「之」部に属するが、「菜・采」と「友」は現代中国語音・中古音・日本語音のいずれで読んでも押韻しない[41]

?風・載馳「我行其野、??其麥、控于大邦、誰因誰極、大夫君子、無我有尤、百爾所思、不如我所之」この六字も古韻では同じ「之」部に属するが、現代中国語音・中古音・日本語音から想像しても六字が同部であることは想像しがたい[41]

なお、『詩経』の押韻例の一覧は、江声『詩経韻読』に整理されている[41]


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