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この時期に評が建て始められたと考えられる[16]

699年(文武3年)、衣評督(えのこおりのかみ)衣君県らが肥人(ひひと、九州西部の島嶼部の人々)を従えて覓国使(べっこくし、南九州に令制国設置と南島路の開拓を進めるための朝廷からの使い)を剽却(ひょうきょう)する事件が起こった。このことから7世紀末には南九州に衣評という評が設定されていることが分かる[17]

『播磨国風土記』「穴禾郡比治里」(しそうぐんひじのさと)の条に難波長柄豊前天皇(孝徳天皇)の御代に揖保郡と穴禾郡とを分けたとの記事がある。「郡」ではなく「評」である。また、天智天皇の庚午年(670年)や持統天皇の庚寅年(690年)に戸籍や里が整備されていったと記されている。国評里の制度が次第に整備されていったことが分かる。飛鳥池遺跡や藤原宮跡などから丹波国の多紀郡を「多貴評」、播磨国の飾磨郡を「志加麻評」、穴栗郡を「穴栗評」、神埼郡を「神前評」、揖保郡を「粒評」と記している木簡が見つかっている[18]

評の一覧

木簡・文献・出土瓦などにおいて存在が確認できる主な評を以下にまとめる。

国、評、郡の名称の表記は、木簡や文献によって異なることがある。

国名及び郡制施行後の郡名は、概ね木簡庫
奈良文化財研究所)に因った。

国名に別表記が見られる場合は括弧内に示した。

国名評名郡制施行後の郡名備考典拠
大倭国(倭国)所布評添上郡添下郡[1]
忍海評忍海郡[2]
高市評高市郡『富士大宮司系図』
葛城評葛上郡葛下郡『望月系図』『神別系譜』
阿久奈弥評「飽波評」とも。後の平群郡飽波郷か[19]。正倉院黄?幡残片墨書[19]
法隆寺幡銘[19]
山背国弟国評乙訓郡「乙訓評」とも[注釈 1]。[3]
川内国川内評河内郡[4]
石川評石川郡『皇胤志』
高安評高安郡[5]
丹比評丹比郡[6]
志貴評志紀郡『金剛場陀羅尼経』写経
飛鳥評安宿部郡鳥坂寺跡出土線刻平瓦[20]
津国三島上評島上郡『寺井系図』
伊賀国奈波利評名張郡[7]
伊勢国朝明評朝明郡「朝」の字は欠損。[8]
安怒評安濃郡[9]
飯高評飯高郡[10]
猪名部評員弁郡[11]
河曲評河曲郡「河」の字は欠損。[12]
三重評三重郡[13]
飯野評飯野郡『大同本記』逸文
多気評多気郡『大同本記』逸文
度会評度会郡『大同本記』逸文
三川国青見評碧海郡[14]
飽海評渥美郡[15]
鴨評賀茂郡[16]
各田評額田郡[17]
波豆評幡豆郡[18]
穂評宝飯郡[19]
尾張国(尾治国)海評海部郡[20]
年魚市評愛智郡『尾張宿祢田島氏系譜』
春部評春部郡[21]
尓破評丹羽郡「尓皮評」「迩波評」とも。[22][23]

『鷲津系図』
知多評智多郡「知田評」とも。[24][25]
羽栗評葉栗郡[26]
山田評山田郡[27]
遠水海国荒玉評麁玉郡[28]
渕評敷智郡[29]
長田評長上郡[30]
城飼評城飼郡「紀甲評」とも。『土方系図』
駿河国珠流河評駿河郡[31]
伊豆国鴨評賀茂郡[32]
売羅評那賀郡入間郷売良里か[21]。[33]
甲斐国山梨評山梨郡『古屋家系譜』『辻家文書』
无耶志国(无射志国)玉評多摩郡『卜部系図』
仲評那珂郡[34]
横見評横見郡[35]
大里評大里郡藤原宮跡出土瓦片[22]
前玉評埼玉郡「前」の字は一部欠損。藤原宮跡出土瓦片[22]
荏原評荏原郡无射志国荏原評銘文字瓦[23]
上?国阿波評安房郡[36]
馬来田評望陀郡[37]
下?国印波評印旛郡『印波国造系図』『門山家系図』
常陸国石城評石城郡『常陸国風土記』
近淡海国浅井評浅井郡「阿佐為評」とも。[38][39]
伊香評伊香郡[40]
衣知評愛智郡[41]
栗太評栗太郡『小槻宿祢系図』
坂田評坂田郡[42]
安評野洲郡[43]
三野国厚見評厚見郡[44]
安八麻評安八郡[45]
刀支評土岐郡[46]
大野評大野郡[47]


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