解剖学者
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主に大学病院や、先端医療を行う研究機関としての役割・教育研修機関として(日本では臨床研修指定病院や日本内科学会など各種学会の教育施設として)の役割も併せ持った市中病院で行われる場合が多い。

この解剖に関する知識体系は、解剖学ではなく病理学である。
社会的要請による解剖

司法解剖行政解剖がこれに当たる。前者は大学の医学部または医科大学法医学教室が担当し、犯罪に関与すると思われる死体を対象とする。後者は監察医または監察医制度の置かれていない地方では大学の法医学教室が担当し、病院で亡くならずに、また犯罪にも関与しない死体を対象とする。例外的に、東京の監察医務院では司法解剖に分けられる異状死体についても検案の対象としている。

この解剖に関する知識体系は、解剖学ではなく法医学である。
解剖の歴史
西洋における解剖の歴史フラゴナール博物館。18世紀フランスの解剖学者フラゴナールによるエコルシェのコレクション所蔵

解剖の歴史は古く、紀元前3500年頃に古代エジプトで記述され、紀元前1700年頃に写筆されたエドウィン・スミス・パピルスには頭蓋縫合や表面の状態といったことが事細かに記述されており、この時代にはすでに人体解剖が行われていたと推測されている。

古代ギリシャの哲人であるヒポクラテスが、ヤギの頭を切り開いてを調べた他、様々な解剖学についての記述が、ヒポクラテスの弟子が編纂した「ヒポクラテス著作集」に記述されている[2]

またその100年ほど後、アレキサンドリアの医師であったヘロフィロスが人体解剖を行ったと言われている[3]

しかし、宗教的・道徳的見地から病理解剖も非人間的な行為と考えられるようになり、従来の定説では人体の解剖は厳しく禁じられるに至ったといわれている[4]。古代における医学の集大成をなしたガレノスは数多くの解剖を行ったが、人体解剖が禁じられていたためにブタサルヤギなどの動物を解剖せざるを得ず、人体からかけ離れた知識も残存していた[5]。ただし、例えばローマ教皇ボニファティウス8世1300年に解剖を涜聖罪に定めたが、直接解剖行為を禁止したものではなく宗教的見地から遺体の地上への放置等を禁じた内容だったといわれている[4]

再び解剖学が活発な動きを見せたのはルネサンス期である。1500年代に入るとボローニャ大学で体系立てた解剖学の研究が始められ、1543年パドヴァ大学アンドレアス・ヴェサリウスは実際に解剖して見たものを詳細に著した“De humani corporis fabrica”(人体の構造)を出版し、近代解剖学の基礎を築いた[6]

18世紀にはパリ大学でもウィーン大学でも解剖の講義が実施されていた[4]。ただし、これが臨床医学の基礎となる病理解剖学に位置づけられるものかは更なる考察が必要とされている[4]

病理解剖学と臨床医学が結び付くのはマリー・フランソワ・クサヴィエ・ビシャなどの相互調整の結果であり19世紀以後のことである[4]

サミュエル・トマス・フォン・ゼンメリンクは、最初にドイツ語で(1791?1796)、次にラテン語で(1794?1800)、解剖学の体系書を公表した。1800年から1801年にドイツ語第2版が刊行され、さらに1841年から1844年にかけて全8巻からなる改訂版が刊行された。

ザビエル・ビシャの「一般解剖学」は、解剖学の歴史における記念碑としての価値がある。解剖学としては、明確かつ自然な配置、正確で精密な説明などの特徴がある。生理学としては、一般的に正しく、しばしば斬新な観察を反映している。ビシャは第3巻の編集中に亡くなり、その後、PJ RouxとMFR Buissonが編集を継続し、完成した。

ヘンリー・グレイは、ロンドンにあるセント・ジョージ病院の解剖学者、外科医であり、「グレイ解剖学」を刊行した。画家として才能があるヘンリー・ヴァンダイク・カーターの助力で、グレイは医学生のために安価でアクセスしやすい解剖学の教科書を作成した。 1832年にイギリスで制定された解剖法は身寄りのない遺体の解剖を容認するので、解剖法に基づいて、死体安置所の遺体を18ヶ月に渡って解剖した。「グレイの解剖学」は1858年に最初に出版された。
社会的背景

医学及び医療の発展に伴って、大学医学部で解剖実習に使用される遺体の需要が増大した。19世紀以前は、処刑された犯罪者の遺体が解剖されることがほとんどであり、まれに親族から提供された遺体が解剖された。というのは、当時の西欧社会では、死後に遺体が解剖されることは、死よりも悪い運命と考えられていた。

1752年にイギリスで制定された「殺人法」では、殺人事件の被告人の遺体を死後に解剖して医学の発展に貢献することが認められた。被告人が絞首刑になった後、絞首台から遺体を下ろすときに医学生が立ち会い、誰が遺体の解剖を行うかを議論したものであるが、解剖医は死刑執行人と同様に恐れられていた。
死体泥棒

19世紀前半までは、イギリス、米国などで解剖用遺体が不足していたので、墓地に埋葬された遺体が盗まれて、解剖されることがあった[7]。死体泥棒という行為は、広く恐怖と反感を引き起こしたのだが、更に、解剖の対象となる恐ろしさが加味された。
殺人事件

1827年から1828年にかけてスコットランドの首都、エディンバラでウェストポート殺人事件が起きた。


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