角川源義
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文庫本の刊行形態は(今でいう出版レーベル)、戦前既に岩波書店新潮社の二つの老舗により、開拓されていたため、新興出版社である角川書店の進出が成功するかどうか危ぶまれたが、結果として関係者が驚くほどの成果を得た。

1952年(昭和27年)6月、俳句総合誌『俳句』を創刊。1954年(昭和29年)、短歌総合誌『短歌』創刊。1955年(昭和30年)、両誌でそれぞれ新人賞角川俳句賞および角川短歌賞を設立。1967年(昭和42年)に蛇笏賞迢空賞を設立。1961年(昭和36年)の俳人協会設立への参加、晩年は「俳句文学館」の建設などとあわせ俳壇・歌壇の興隆に尽力した[6]

1952年11月に発刊した『昭和文学全集』(全25巻)は、1巻あたり15万部強の記録的な売れ行きを示し、これによって文芸出版社としての角川書店の評価が確立した。社内では「角川天皇」、私生活の面では鬼源と綽名された癇癪持ちであると同時に漁色家でもあり、自らの家庭を顧みずに複数の愛人を作って私生児を産ませるなど奔放な生き方を貫いた。長男・角川春樹は、父に対しての反逆心が出発点だったと「私の履歴書」ほかで述べている。

1961年、「語り物文芸の発生」で文学博士(國學院大學)。1975年(昭和50年)、病没する年の前期まで國學院大學、慶應義塾大学大学院に出講していた。1972年(昭和47年)、『雉子の聲』で第20回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞する。1975年、東京女子医科大学病院において58歳で急死。戒名は浄華院釈義諦[10]。墓所は小平霊園1979年(昭和54年)に角川源義賞が発足[11]した。
俳人として

前述のように中学時代から俳句に興味を持ち始めており、中学2年生のとき(1931年)に校友会誌に「俳人一茶の生涯」を寄稿したり、翌年より伊東月草主宰の「草上」に投句するなどしていた。角川書店設立後、1947年に金尾梅の門の「古志」(のち「季節」に改題)に幹部同人として参加。1958年12月、叙情性の回復と伝統への回帰を標榜し「」を創刊、死去するまで主宰を務めた[6]。1975年、第5句集『西行の日』で読売文学賞を受賞した。

代表句として、「何求(と)めて冬帽行くや切通し」(『ロダンの首』所収)「篁(たかむら)に一水まぎる秋燕」(『秋燕』所収)「花あれば西行の日と思ふべし」(『西行の日』所収)などがある。飯田蛇笏の格調の高い句風を慕い、また石田波郷の俳句精神に傾倒。自身の句も二句一章の構造を持つ格調の高い句が多く、客観・写実に徹すれば叙情がにじみ出るという考えに立っていた[6]

中世への民俗学的関心や古典への傾倒などから難解な句を作る傾向があったが、第4句集『冬の虹』(1972年)からは日々の生活に目を向け、「軽み」に通じる平明で直接的な叙情を目指した[12]。「篁に」の句にちなみ、源義の忌日は「秋燕忌」(しゅうえんき)とも呼ばれる[13]
家族・親族

祖父・源三郎
[1]1909年(明治42年)没[14]

初代角川源三郎はもともとは現黒部市地主、谷家の一族である[1]。水橋在の角川源平の養子に入ったが、その後、源平に実子が生まれたので、分家して新たに角川家をたてた[1]。つまり、源義は二代目源三郎の子であり、その血統からいえば、谷氏の一族の裔ということになる[1]

谷氏は下新川地方の名族で、その遠祖は宇多源氏の系統、近江源氏佐々木一族である[1]元亀天正(1570-92)の頃、谷大膳亮衞好(だいぜんのすけもりよし)ははじめ美濃の斎藤龍興に仕え、のち豊臣秀吉の家臣となり、播磨国平田城6000石を知行[15]。天正6年(1578年)、同国三木城の攻囲中に賀状坂の付城を固守して戦死した[15]。その衞好の子衞韋が大坂夏の陣後、越中へ移り下新川郡に土着したのが越中谷氏の初めであるといわれる[15]


祖母・シナ[14]

父・源三郎[1]鮮魚商、米穀[1]1877年(明治10年)生[14]

小学校にも満足に通わず幼時から刻苦して働いた[14]船乗りになったり、魚を売り歩いたりして生活を支えた[14]。後に米穀商として成功した[14]


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