角川映画
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1983年には、マッドハウスと組んでアニメ映画にも進出[27][28]。角川アニメ第1弾の『幻魔大戦』は[24][29]、配給収入で10億円以上を記録し[24]、同年末の『里見八犬伝』は1984年の配給収入で邦画1位の23億2000万円を計上している[30][注釈 5]。こうして1970年代末から1980年代半ばの角川映画は、洋画とテレビに押される一方だった日本映画界の停滞を打ち破るヒットを連発した。角川映画の指揮をとりキャッチコピーも考えていた角川春樹は、西崎義展山本又一朗らの独立プロデューサーとともに映画界の寵児になり[32]、1982年には優秀なプロデューサーに贈られる藤本賞を受賞した。映画宣伝の際は俳優や監督以上に積極的にメディアへ露出し、角川映画は角川春樹の代名詞とも言える存在であった。当初は話題先行と見られて映画評論家からは低かった評価も、1982年の『蒲田行進曲』、1984年の『Wの悲劇』と『麻雀放浪記』が映画賞を受賞し、『犬神家の一族』の後は圏外が続いていたキネマ旬報ベスト・テンにランクインするなど、内容的な充実も認められるようになった[26][33][34][35]

日本映画界に定着する一方で、製作から10年目を迎えた1980年代後半以降、角川映画の勢いは失速していった[36][37]。それには、民放のフジテレビが映画界に本格参入して[注釈 6]、角川映画のお株を奪う大量スポットや局を挙げてのメディアミックス戦略を仕掛けたこと[38][39]、また、内部的には1985年に薬師丸ひろ子が角川春樹事務所から独立、翌1986年には同事務所自体が芸能部門から撤退して、所属する原田知世と原田貴和子、渡辺典子も独立したことなど[40][41] の影響があった[36][37]

角川春樹時代の角川映画は作品の製作のみで、完成した作品の配給興行は東映や東宝など他社に依存。1981年にはジャニーズ事務所の『ブルージーンズメモリー』と2本立てだった『ねらわれた学園』の宣伝の扱いをめぐって配給する東宝とトラブルになる[42][43]1985年になって念願の配給業に乗り出し、さらに札幌市で角川春樹事務所が経営する形の「角川シアター」という映画館を開いて興行を始めるも、配給は2本の共同配給で終わった。角川シアターもその後は松竹系の札幌ピカデリーを経てアーバンホールとなったが[注釈 7]、このときの配給と興行の試みは成功しなかった[37][44]。当時の角川作品は松竹に匹敵する配給収入を挙げており、自社配給と自主興行を成功させ、第6の映画会社として自立されることを恐れた日本映画界の妨害があったともされ[45][46]、東映の岡田茂は、角川の自主配給の動きに対し、今後は協力しないと突き放す発言をしている[47]

監督市川崑佐藤純彌深作欣二ら実績のあるベテランに加えて、1980年代から当時若手だった大林宣彦相米慎二井筒和幸森田芳光根岸吉太郎崔洋一や、ほぼTVのみに活動が限られていた中堅の斉藤光正らにチャンスを与え、積極的に登用するようになった[48][49][50][51]

1990年には1990年代初の大作『天と地と』を手がけて興行収入は92億円を上げた[52]。しかし1992年にハリウッド進出第1弾と称した『ルビー・カイロ』を製作するが失敗し、これらを含む一連の映画事業の失敗が、角川春樹と弟の角川歴彦の対立を招く下地となり、1992年に角川書店のお家騒動が勃発する[53]。翌1993年には、角川映画を牽引した角川春樹が薬物所持により逮捕され、角川書店を離れる事態に至り、同年7月封切の『REX 恐竜物語』が角川春樹が角川書店在籍中の最後の映画となる[注釈 8]

角川春樹製作時代の「角川映画」の著作権を巡って、角川春樹と角川書店の間で係争も起こった。


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