映画音楽や主題歌にも力を入れ[7]、音楽著作権管理する角川音楽出版や音楽企画制作の角川レコードを設立。1970年代は上記映画のほか、1978年の『野性の証明』、1979年の『戦国自衛隊』と大作路線を続けていくが、この1本立て上映の大作路線は、当時は2本立てのプログラムピクチャーを上映していた他社にも影響を与えて、大作ブームを招いた[8][9][10]。この他、1976年から1980年頃まで、大阪の毎日放送制作によりTBS系で放送された「横溝正史シリーズ」や「森村誠一シリーズ」などのテレビドラマの企画を、一連の角川映画と連動する形で角川春樹事務所が手がけた。
1980年代は1980年の『復活の日』を最後に大作一辺倒の路線の撤退を宣言し[11]、スター・システムによる2本立て上映のアイドル映画を中心に、プログラムピクチャーを量産するようになる[12][13]。製作費に22億円をかけた『復活の日』が[注釈 2]、配給収入24億円の結果[注釈 3]に終わって制作費を回収できず、路線変更をせざるを得なかったのである[16]。正月作品の大作『戦国自衛隊』も配収13億5000万円を挙げながら収支がトントンといった状態であった[17]。ハイリスクの大作映画に対して『セーラー服と機関銃』(1981年)は製作費1億5000万円と[18]『復活の日』の10分の1の予算ながら興行成績では『復活の日』に匹敵する配給収入23億円を挙げた[注釈 4]。映画公開当時、角川書店から出版されていた赤川次郎の本は、文庫が『セーラー服と機関銃』と『血とバラ』、単行本が『さびしがり屋の死体』、『悪妻に捧げるレクイエム』の計4冊しかなく、大規模なブック・フェアは出来なかった[21]。中川右介は、角川映画のビジネスモデルが「文庫本を売るための映画作り」から「専属女優とそのファンのための映画作り」に『セーラー服と機関銃』から移行したと分析している[22]。翌1982年に角川春樹事務所はコンテストで渡辺典子・原田知世を発掘[23]。既に専属女優だった薬師丸ひろ子を含めて彼女たちは角川3人娘と呼ばれた。1983年の『探偵物語』と『時をかける少女』の2本立ては配給収入28億円に達した[24]。彼女らはテレビに露出することが少なく、テレビに出演しているアイドルが映画に出演するという1970年代以降の形でなく、映画全盛期のスクリーンでしか見られなかったかつての映画スターと同様の存在として、若い観客を映画館へ呼び戻し[25][13]、自社スターによるプログラムピクチャー路線で角川映画の1980年代前半を牽引した[16]。自社雑誌『バラエティ』を1977年に創刊して情報の発信をしていた[26]。
1983年には、マッドハウスと組んでアニメ映画にも進出[27][28]。角川アニメ第1弾の『幻魔大戦』は[24][29]、配給収入で10億円以上を記録し[24]、同年末の『里見八犬伝』は1984年の配給収入で邦画1位の23億2000万円を計上している[30][注釈 5]。