角川映画
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1977年の第2作『人間の証明』は日活撮影所で撮影し、配給は東映、興行は東宝洋画系という従来の日本映画界では考えられない組み合わせで映画界に新風を巻き起こした[2]日本のメジャー映画会社と違い、自社で人員を抱えず、撮影所も持たずに製作するため、最も頭を悩ませる部分を負担せずに済む、効率の良い「おいしいとこ取り」の製作手法であった[3]。脇役には主演作が多い三船敏郎鶴田浩二らを起用し、監督へも高額の演出料を払った。テレビCMでは映像と「お父さん怖いよ。何か来るよ。大勢でお父さんを殺しにくるよ」、「狼は生きろ、豚は死ね。」、「歴史は、我々に何をさせようというのか?」、「カイカン。」などのキャッチコピーや劇中の台詞と音楽が流れ、映画と出版と音楽による相乗効果のメディアミックスは角川商法と呼ばれた。横溝に続いて森村誠一大藪春彦半村良赤川次郎らの小説も次々と映画化された。角川文庫には映画割引券をしおりとして封入した[4][5][6]

映画音楽や主題歌にも力を入れ[7]、音楽著作権管理する角川音楽出版や音楽企画制作の角川レコードを設立。1970年代は上記映画のほか、1978年の『野性の証明』、1979年の『戦国自衛隊』と大作路線を続けていくが、この1本立て上映の大作路線は、当時は2本立てのプログラムピクチャーを上映していた他社にも影響を与えて、大作ブームを招いた[8][9][10]。この他、1976年から1980年頃まで、大阪毎日放送制作によりTBS系で放送された「横溝正史シリーズ」や「森村誠一シリーズ」などのテレビドラマの企画を、一連の角川映画と連動する形で角川春樹事務所が手がけた。

1980年代は1980年の『復活の日』を最後に大作一辺倒の路線の撤退を宣言し[11]スター・システムによる2本立て上映のアイドル映画を中心に、プログラムピクチャーを量産するようになる[12][13]。製作費に22億円をかけた『復活の日』が[注釈 2]配給収入24億円の結果[注釈 3]に終わって制作費を回収できず、路線変更をせざるを得なかったのである[16]。正月作品の大作『戦国自衛隊』も配収13億5000万円を挙げながら収支がトントンといった状態であった[17]。ハイリスクの大作映画に対して『セーラー服と機関銃』(1981年)は製作費1億5000万円と[18]『復活の日』の10分の1の予算ながら興行成績では『復活の日』に匹敵する配給収入23億円を挙げた[注釈 4]。映画公開当時、角川書店から出版されていた赤川次郎の本は、文庫が『セーラー服と機関銃』と『血とバラ』、単行本が『さびしがり屋の死体』、『悪妻に捧げるレクイエム』の計4冊しかなく、大規模なブック・フェアは出来なかった[21]中川右介は、角川映画のビジネスモデルが「文庫本を売るための映画作り」から「専属女優とそのファンのための映画作り」に『セーラー服と機関銃』から移行したと分析している[22]。翌1982年に角川春樹事務所はコンテストで渡辺典子原田知世を発掘[23]。既に専属女優だった薬師丸ひろ子を含めて彼女たちは角川3人娘と呼ばれた。1983年の『探偵物語』と『時をかける少女』の2本立ては配給収入28億円に達した[24]。彼女らはテレビに露出することが少なく、テレビに出演しているアイドルが映画に出演するという1970年代以降の形でなく、映画全盛期のスクリーンでしか見られなかったかつての映画スターと同様の存在として、若い観客を映画館へ呼び戻し[25][13]、自社スターによるプログラムピクチャー路線で角川映画の1980年代前半を牽引した[16]。自社雑誌『バラエティ』を1977年に創刊して情報の発信をしていた[26]

1983年には、マッドハウスと組んでアニメ映画にも進出[27][28]。角川アニメ第1弾の『幻魔大戦』は[24][29]、配給収入で10億円以上を記録し[24]、同年末の『里見八犬伝』は1984年の配給収入で邦画1位の23億2000万円を計上している[30][注釈 5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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