親衛隊_(ナチス)
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ナチ党組織の再建の中でヒトラーは、1925年4月中旬にユリウス・シュレックに自らの警護部隊を再建するよう命じた。2週間後の5月にこの組織は「親衛隊 (Schutzstaffel)」の名前を与えられた[11][12][13][注釈 2]。発足当時の親衛隊隊員数はわずかに8名であった[12]

初期の親衛隊には以下のような入隊条件があった。

年齢23歳から35歳まで

2人以上の保証人が立てられる

同一の住居に5年以上居住している旨を警察に届けてある

健康で頑強な体を持っていること

また親衛隊の行動指針にはアルコール中毒者、おしゃべり、非行歴がある者は酌量されないと定められていた。ドイツ人であればほとんど誰でも入隊できた突撃隊と異なり、親衛隊は設立当初から一定の入隊条件が存在していたことになる[13][14][15]。親衛隊は設立後すぐにドレスデンにおいて共産党員50名によるナチ党集会襲撃の企みを未然に防いで功績をあげた[8][15]

シュレックは親衛隊の拡張に努め、1925年9月には全ての地方党グループに親衛隊を設置するよう命令を下した[15]。1925年クリスマスの親衛隊の報告によれば隊員数は1000人になっていたという[16]。1926年春には「親衛隊司令部(SS-Oberleitung)」が創設された[17]

1926年4月にベルヒトルトが亡命先のオーストリアから帰国してシュレックから親衛隊隊長の職を受け継いだ[18][19]。1926年7月4日のヴァイマルでの第二回党大会で「血染めの党旗」が突撃隊から親衛隊の管理に移されることとなった[16][20][21]

1926年11月1日フランツ・プフェファー・フォン・ザロモンが突撃隊最高指導者に任じられたのを機に親衛隊は突撃隊の傘下に組み入れられ、同時にベルヒトルトは「親衛隊全国指導者」(Reichsfuhrer-SS)の肩書を得た[19][20][22]

結局ベルヒトルトはフォン・ザロモンとの軋轢を強めて辞職した[23]1927年3月にベルヒトルトの副官エアハルト・ハイデンが代わって親衛隊全国指導者に就任した[23][24][25]。突撃隊最高指導者フォン・ザロモンは各地区の親衛隊員数を突撃隊員数の10%以下にすることを命じ、これによりハイデンは隊員数の削減を迫られた。そのため1928年までに親衛隊の隊員数は280人にまで落ち込んだ[23][26]。ハイデンもフォン・ザロモンとの軋轢を強めて1929年1月6日に辞職することとなった[20][21]
勢力拡大1929年のハインリヒ・ヒムラー

1929年1月6日にハイデンの副官であったハインリヒ・ヒムラーが第4代親衛隊全国指導に任じられた[25][27][28][29][30][31][32]。この時の親衛隊は280名ほどの弱小組織であったが、ヒムラーの下で親衛隊はその規模を急速に拡大させ、1929年末には1000人[21][33]、1930年末には2700人[21][33]、1931年には1万5000人[34]、1932年4月には2万5000人[35]、1932年末には5万人以上になっていた[36][37]

これは1929年10月24日ニューヨークウォール街の大暴落により発生した世界恐慌が関係していた。失業者がなだれを打ってナチ党やナチ党組織へ参加を希望し、親衛隊にも入隊希望者が殺到した[38]。もちろん突撃隊は親衛隊より多くこの人材源を吸収した。これによりドイツ各地で徒党を組んで無法行為を働く突撃隊員が増加した。ついには党首ヒトラーの統制すらも受け付けなくなるほどに荒れ、当時選挙による合法的政権獲得を目指していたヒトラーにとっては頭痛の種となっていた。ヒトラーはこの突撃隊の無法分子に対する警察組織の必要性を痛感し、その任務を果たす組織としてヒムラー率いる親衛隊に目を付けた[21][39]。加えて親衛隊の拡大に強く反対していた突撃隊最高指導者フォン・ザロモンがヒトラーとの対立から1930年8月12日に辞職することになり、さらに同月終わりには東部ベルリン突撃隊指導者ヴァルター・シュテンネスが党指導部に対して反乱を起こした[40]

こうした情勢からヒトラーは1930年11月7日付けの命令で正式に親衛隊を党内警察組織と規定し、親衛隊は突撃隊の指揮に従う必要はないと定めた(ただし1934年の「長いナイフの夜」までは形式的に突撃隊の下部組織であった)[41][42]

ヴァルター・ダレの『血と大地』のイデオロギーに強く影響されていたヒムラーは、1929年4月に親衛隊の組織規定の草案をヒトラーやフォン・ザロモンに提出し、人種的な問題を親衛隊入隊の条件に据えるようになった[43]。数で圧倒的に勝る突撃隊を抑え込むためには親衛隊を「エリート集団」にせねばならなかった。そしてヒムラーやダレのいう「エリート」とは金髪で青い目をしている長身の北方人種のことであった[44][45]


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