これに対して福島は、日本のSFに対する真正面からの批評の必要性を頑強に主張。『SFマガジン』1969年6月号に山野浩一の評論「日本のSFの原点と志向」を載せ、日本のSFの閉鎖的状況に対する批判を山野に代弁させた。最終的に福島は、この事件の責任を取る形で早川書房を退社。『SFマガジン』1969年8月号に退社の挨拶文「それでは一応さようなら」を発表し、「批評を嫌い、批判されたことを恨み、未練がましくあげつらう精神で、いったいなぜ、SFが書けるか。多少の批評をされたからというので、気落ちして書けなくなるような、そんな女々しい人間は、もともとものを書くべきではなかった。そんな弱々しい作家は、消えてなくなればいいのです」と一方的に作家たちを非難した。福島が独立した際の励ます会には、座談会で槍玉に挙げられた作家のほとんどが欠席した[6]。
豊田は1976年から『奇想天外』誌上で連載開始したエッセイ「あなたもSF作家になれるわけではない」(完結後の1979年11月に単行本化)でこの事件に触れ、最後まで名乗り出なかった稲葉明雄をIのイニシャルで批判し、この連載がきっかけとなって稲葉は名乗り出ることになった。
福島が設立した少年文芸作家クラブ(現・創作集団プロミネンス)には多くのSF作家が参加していたが、この事件を機にほとんどが退会。残ったSF作家は光瀬龍、眉村卓、南山宏らに限られた[7]。
福島はのち1976年に死去。筒井康隆は当時のことを振り返り、覆面座談会以降『SFマガジン』とは絶縁状態が続いたが、副編集長の森優に特に乞われて『脱走と追跡のサンバ』は連載した、しかし短篇はほとんど書かなかったと述べている[8]。また「福島氏はやがて早川書房を退社し、数年後に喉頭ガンで急逝するが、仲直りすることはなかった」[8]とも述べている。大方のSF作家は生前の福島の功績を称えているが[9][10]、筒井康隆など一部のSF作家たちの間では福島への感情的なしこりを残す形になった。1979年に光文社から『SF宝石』が発刊された時には、編集長の谷口尚規が関西在住の作家を訪ねた折、福島の知人であることを何気なく知らせたばかりに門前払いを受け、一部の作家たちから執筆拒否を受けたこともある[11]。
脚注[脚注の使い方]^ 並び順は最相葉月『星新一 一〇〇一話をつくった人』(新潮社、2007年)p391による。一方、平井和正は『夜にかかる虹 上巻』92頁で
A=福島正実
B=稲葉明雄
C=石川喬司
D=森優
E=伊藤典夫
としている。
^ 江戸いろはかるたに由来することわざで、細い葦の茎の管を通して天井を見て、それで天井の全体を見たと思い込むこと。自分の狭い見識に基づいて、勝手に判断することの喩え
^ 豊田有恒『あなたもSF作家になれるわけではない』徳間書店、1979年、p.103
^ ⇒―寄せ書き― 豊田有恒「星新一の不思議」星新一公式
^ 平井和正『夜にかかる虹 上巻』リム出版、1990年、p.87-p.93
^ 豊田『あなたもSF作家になれるわけではない』徳間書店、1979年、p.54
^ 立川ゆかり「是空の作家・光瀬龍 連載第18回」『S-Fマガジン』2013年7月号、p.155
^ a b 『筒井康隆漫画全集』172頁
^ 小松左京『小松左京のSFセミナー』集英社文庫、1982年、p.106
^ 平井和正「掘り出した狼通信 24号」『ウルフの神話』徳間書店、1986年、p.38-p.39
^ 宮田昇『戦後「翻訳」風雲録 翻訳者が神々だった時代』本の雑誌社、2000年、p138 ISBN 4-938463-88-1
参考文献
豊田有恒『あなたもSF作家になれるわけではない』徳間書店、1979年
豊田有恒『退魔戦記』(立風書房、1969年)
豊田有恒『自殺コンサルタント』あとがき(三一書房、1969年)
福島正実「特別日記」(早川書房『SFマガジン』1969年12月号所載)
豊田有恒「福島氏に答える」(早川書房『SFマガジン』1970年1月号所載)
最相葉月『星新一 一〇〇一話をつくった人』(新潮社、2007年)ISBN 410459802X
巽孝之『日本SF論争史』勁草書房、2000年
関連項目
SFクズ論争
抜打座談会事件
魔童子論争
太陽風交点事件