西郷隆盛
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10月初旬、御側役・代々小番[注釈 17] となり、大島吉之助[注釈 18] から西郷吉之助に改めた。

10月12日、西郷は征長軍参謀に任命された。24日、大坂で征長総督・徳川慶勝にお目見えし、意見を具申したところ、長州処分を委任された。そこで、吉井友実税所篤を伴い、岩国で長州方代表の吉川経幹(監物)と会い、長州藩三家老の処分すなわち切腹を申し入れた。引き返して徳川慶勝に経過報告をしたのち、小倉に赴いて副総督・松平茂昭に長州処分案と経過を述べ、薩摩藩総督・島津久明にも経過を報告した。結局、西郷の妥協案に沿って収拾が図られ、12月27日、征長総督が出兵諸軍に撤兵を命じ、この度の征討行動は終わった。収拾案中に含まれていた五卿処分も、中岡慎太郎らの奔走で、西郷の妥協案に従い、慶応元年(1865年)初頭に福岡藩の周旋で九州5藩に分移させるまで福岡で預かることで一応決着した。
薩長同盟と第二次長州征伐「薩長同盟」も参照

慶応元年(1865年)1月中旬に鹿児島へ帰って藩主父子に報告を済ませると人の勧めもあって、1月28日に小松帯刀の媒酌で家老座書役・岩山八太郎直温の二女・イト(絲子)と結婚した[27]。この後、前年から紛糾していた五卿移転とその待遇問題を周旋して、2月23日に待遇を改善したうえで太宰府天満宮の延寿王院に落ち着かせることでやっと収束させた。これと並行して大久保利通・吉井孝輔らとともに九州諸藩連合のために久留米藩や福岡藩などを遊説して、3月中旬に上京した。

この頃、幕府は武力で勅命を出させ、長州藩主父子の出府、五卿の江戸への差し立て、参勤交代の復活の3事を実現させるために、2老中に4大隊と砲を率いて上京させ、強引に諸藩の宮門警備を幕府軍に交替させようとしていたが、それを拒否する勅書と伝奏が所司代に下され、逆に至急、将軍を入洛させるようにとの命が下された。これらは幕権の回復を望まない西郷・大久保らの公卿工作によるものであった。

5月1日に西郷は坂本龍馬を同行して鹿児島に帰り、京都情勢を藩首脳に報告した後、幕府の征長出兵命令を拒否すべしと説いて藩論をまとめた。9日に大番頭・一身家老組[注釈 19] に任命された[28]。この頃、幕府首脳は、勅書を無視して、将軍家茂が紀州藩主・徳川茂承以下16藩の兵約6万を率いて西下を開始し、兵を大坂に駐屯させたのち、閏5月22日に京都に入った。翌23日、家茂は参内して長州再征を奏上したが、許可されなかった。6月、鹿児島入りした中岡慎太郎は、西郷に薩長の協力と和親を説き、下関で桂小五郎(木戸孝允)と会うことを約束させた。しかし、西郷は大久保から緊迫した書簡を受け取ったので、下関寄港を取りやめ、急ぎ上京した。

この間、京大坂滞在中の幕府幹部は兵6万の武力を背景に一層強気になり、長州再征等のことを朝廷へ迫った。これに対し、西郷は幕府の脅しに屈せず、6月11日、幕府の長州再征に協力しないように大久保に伝え、そのための朝廷工作を進めさせた。それに加え、24日には京都で坂本龍馬と会い、長州が欲している武器・艦船の購入を薩摩名義で行うと承諾すると薩長和親の実績をつくった。また、幕府の兵力に対抗する必要を感じ、10月初旬に鹿児島へ帰り、15日に小松帯刀とともに兵を率いて上京した。この頃、長州から兵糧米を購入することを龍馬に依頼したが、これもまた薩長和親の実績づくりであった。この間、黒田清隆(了介)を長州へ往還させ薩長同盟の工作も重ねさせた。

9月16日、英・仏・蘭三カ国の軍艦8隻が兵庫沖に碇泊し、兵庫開港を迫った[要出典]。一方、京都では、武力を背景にした脅迫にひるんだ朝廷は同21日、幕府に長州再征の勅許を下した。また、10月1日に前尾張藩主・徳川慶勝から出された条約の勅許と兵庫開港勅許の奏請も一度は拒否したが、将軍辞職をほのめかして朝廷への武力行使も辞さないとの幕府及び徳川慶喜の脅迫に屈し、条約は勅許するが兵庫開港は不許可という内容の勅書を下した[要出典]。これは強制されたものであったとはいえ、安政以来の幕府の念願の実現であり、国是の変更という意味でも歴史上の大きな決定であった[要出典]。

慶応2年1月8日(1866年2月22日)、西郷は村田新八、従兄弟の大山成美[注釈 20]を伴うと、上京してきた桂小五郎を伏見に出迎え、翌9日、京都に帰って二本松藩邸に入った。21日(一説に22日[要出典])、西郷は桂と小松帯刀邸で薩長提携六ヶ条を密約し、坂本龍馬がその提携書に裏書きをした(薩長同盟)。その直後、龍馬が京都の寺田屋で幕吏に襲撃されると、西郷の指示で、薩摩藩邸が龍馬を保護した。その後、3月4日に小松帯刀、桂久武、吉井友実、坂本龍馬夫妻(西郷が仲人)らと大坂を出航し、11日に鹿児島へ着いた。4月、藩政改革と陸海軍の拡張を進言し、それが容れられると、5月1日から小松、桂らと藩政改革にあたった。

第二次長州征伐は、6月7日の幕府軍艦による上ノ関砲撃から始まった。大島口・芸州口・山陰口・小倉口の四方面で戦闘が行われ、芸州口は膠着したが、大島口と小倉口は高杉晋作の電撃作戦と奇兵隊を中心とする諸隊の活躍で勝利し、大村益次郎が指揮した山陰口も連戦連勝し、幕府軍は惨敗続きであった。鹿児島にいた西郷は、7月9日に朝廷に出す長州再征反対の建白を起草し、藩主名で幕府へ出兵を断る文書を提出させた。一方、幕府は、7月30日に将軍・徳川家茂が大坂城中で病死したので、喪を秘し、8月1日の小倉口での敗北を機に、敗戦処理と将軍継嗣問題をかたづけるべく、朝廷に願い出て21日に休戦の御沙汰書を出してもらった。将軍の遺骸を海路江戸へ運んだ幕府は、12月25日の孝明天皇の崩御を機に解兵の御沙汰書を得て公布し、この戦役を終わらせた。この間の7月12日、西郷に嫡男・寅太郎が誕生。9月には大目付・陸軍掛・家老座出席に任命された[28][注釈 21]ものの、大目付役は病気を理由に返上した。
薩土密約と薩土盟約薩土討幕之密約紀念碑
密約が締結される前段階として京都「近安楼」で会見がもたれたことを記念する石碑
京都市東山区(祇園)
四侯会議

慶応3年(1867年)3月上旬、村田新八と中岡慎太郎らを先発させ、大村藩平戸藩などを遊説させた。3月25日、西郷は久光を奉じ、薩摩の城下1番小隊から6番小隊の精鋭700名を率いて上京した。5月に京都の薩摩藩邸と土佐藩邸で相次いで開催された四侯会議の下準備をした。
薩土密約

5月21日、中岡慎太郎の仲介によって、京都の小松帯刀邸にて、土佐藩乾退助谷干城らと、薩摩藩の西郷、吉井幸輔らが武力討幕を議して、薩土討幕の密約(薩土密約)を結ぶ[注釈 22]。6月15日、西郷は山縣有朋を訪問し、武力討幕の決意を告げた。16日、西郷と小松帯刀、大久保利通、伊地知正治、山縣、品川弥二郎らが会し、改めて薩長同盟の誓約をした。その後、乾退助が独断で江戸築地の土佐藩邸に匿っていた水戸浪士に薩摩藩邸へ移すことを密約し、伊牟田尚平益満休之助相楽総三らが江戸市内での幕府挑発活動の一翼をになう手はずが整うと、やがて江戸薩摩藩邸の焼討事件につながる。
薩土盟約

土佐藩乾退助らと薩土討幕の密約を締結した一ヶ月後の6月22日、今度は坂本龍馬・後藤象二郎福岡孝弟らが西郷と会し、武力討幕によらない大政奉還のための薩土盟約を締結。薩摩藩と土佐藩は、西郷を通じて性格の相反する軍事同盟を結ぶこととなる。薩摩が二重契約を結んだことは、薩摩にとってはどちらの局面になっても対応できることになるという解釈も成り立つが、その後の時局の推移を考えると、薩土討幕の密約が本筋であって、大政奉還のための薩土盟約はその時局を有利に進める為の策略として締結されたものと解釈可能である。
大政奉還と王政復古

9月7日、久光の三男・島津珍彦(うずひこ)が兵約1,000名を率いて大坂に着いた。9月9日、後藤が来訪して坂本龍馬案にもとづく大政奉還建白書を提出するので、挙兵を延期するように求めたが、西郷は拒否した(後日了承した)。土佐藩(前藩主・山内容堂)から提出された建白書を見た将軍・徳川慶喜は、10月14日に大政奉還の上奏を朝廷に提出させた。ところが、同じ14日に、討幕と会津・桑名誅伐の密勅が下り、西郷・小松・大久保・品川らはその請書を出していた(この請書には西郷吉之助武雄と署名している[28])。15日、朝廷から大政奉還を勅許する旨の御沙汰書が出された。

密勅を持ち帰った西郷は、桂久武らの協力で藩論をまとめ、11月13日、藩主・島津茂久を奉じ、兵約3,000名を率いて鹿児島を発した。途中で長州と出兵時期を調整し、三田尻を発して、20日に大坂、23日に京都に着いた。長州兵約700名も29日に摂津打出浜に上陸して、西宮に進出した。またこの頃、芸州藩も出兵を決めた。諸藩と出兵交渉をしながら、西郷は、11月下旬頃から有志に王政復古の大号令発布のための工作を始めさせた。12月9日、薩摩・芸州・尾張・越前に宮中警護のための出兵命令が出され、会津・桑名兵とこれら4藩兵が宮中警護を交替すると、王政復古の大号令が発布された。
戊辰戦争鳥羽・伏見の戦いにおいて長州軍を視察する西郷(図画中央腰に手を当てた人物) 『戊辰戦記絵巻, 1870』
合戦開始前後(土佐藩との折衝)

慶応3年(1867年)12月、武力討幕論を主張し、大政奉還論に真っ向から反対して失脚した乾退助を残して土佐藩兵が上洛。


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