西郷隆盛
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まず国分寿介[注釈 35]が剣に伏して自刃した。桂久武が被弾して斃れる(たおれる)と、弾を受けて落命する者が続き、島津応吉久能邸門前で西郷も股と腹に被弾した。西郷は別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と言い、将士が跪いて見守る中、襟を正し、跪座し遙かに東に向かって拝礼しながら、別府に首を打たせる形で自害した[注釈 36]。介錯を命じられた別府は、涙ながらに「ごめんなったもんし(御免なっ給もんし=お許しください)」と叫んで西郷の首を刎ねたという。享年51(満49歳没)。

西郷の首はとられるのを恐れ、折田正助邸門前に埋められた[注釈 37]。西郷の死を見届けると、残余の将士は岩崎口に進撃を続け、私学校の一角にあった塁に籠もって戦ったのち、自刃、刺し違え、あるいは戦死した。

午前9時、城山の戦いが終わると大雨が降った。雨後、浄光明寺跡で山縣有朋と旅団長ら立ち会いのもとで検屍が行われた。西郷の遺体は毛布に包まれたのち、木櫃に入れられ、浄光明寺跡に埋葬された(現在の南洲神社の鳥居附近)。このときは仮埋葬であったために墓石ではなく木標が建てられた。木標の姓名は県令・岩村通俊が記した[108][要文献特定詳細情報]。明治12年(1879年)、浄光明寺跡の仮埋葬墓から南洲墓地のほぼ現在の位置に改葬された。また、西郷の首も戦闘終了後に発見され、検分ののちに手厚く葬られた[注釈 38][要文献特定詳細情報]。
死後西郷墓地

西郷は挙兵直後の明治10年(1877年)2月25日に「行在所達第四号」で官位を褫奪(ちだつ)され[109]、死後、賊軍の将として遇された。その後、西郷の人柄を愛した明治天皇の意向や黒田清隆らの努力があって明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法発布に伴う大赦で赦され、正三位を追贈された[8]。明治天皇は西郷の死を聞いた際にも「西郷を殺せとは言わなかった」と洩らしたとされるほど西郷のことを気に入っていたようである。戒名は、南州寺殿威徳隆盛大居士[要出典]。
人物
名前

諱は隆永であったが明治2年8月、明治政府樹立の功で正三位が送られる際、その文書には諱を書く必要があったが西郷は箱館戦争を終えて薩摩に帰る船に乗っていたため、政府の役人が吉井友実に聞くも、吉井はいつもは西郷を吉之助と呼んでいたため思い出せず、頭に浮かんだ隆盛を政府側に伝えて文書が作成された。だがそれは西郷の父、吉兵衛の諱だった[110][要ページ番号]。西郷隆盛として正三位が贈られて以降、その名を使った[110]

愛称の「西郷どん」とは「西郷殿」の鹿児島弁表現(現地での発音は「セゴドン」に近い)であり、目上の者に対する敬意だけでなく、親しみのニュアンスも込められている。また「うどさぁ」と言う表現もあるが、これは鹿児島弁で「偉大なる人」と言う意味である。最敬意を表した呼び方は「南洲翁」である。
「うーとん」「うどめ」などのあだ名の由来
「うどめ」とは「巨目」という意味である[111]。西郷は肖像画にもあるように、目が大きかった。その眼光と巨目でジロッと見られると、異様な威厳があって、桐野のような剛の者でも舌が張り付いて物も言えなかったという[要出典]。その最も特徴的な巨目を薩摩弁で呼んだのが「うどめ」であり、「うどめどん」が訛ったのが「うーとん」であろう[要出典]。引用文 ? 今も忘れません。父の眼は全体に大きい方で、それがまた黒眼勝ちで、それこそ怖い眼でした。眼だけは確かに他人と異なってました。ですから父に接する人は、誰でも両手を畳についたきりで頭をあげて仰ぎ見得なかったようです。私がはじめて父に伴われて東京に参りました時、出迎えられた元老の誰彼も、矢張同様に頭をあげられませんでした、西郷菊次郎、下中弥三郎『西郷隆盛』[112]
身体的特徴

身長は五尺九寸八分(約180cm)[113]、体重は二十八貫(約105kg)[112]と伝わっている[114]。遺品の陸軍大将大礼服(鹿児島市維新ふるさと館収蔵)を、巡業に来た東西両横綱が試しに着てみたが、少しだぶつく大形で、特に肩幅が広く、首も大きく、カラーも十九半形を用いていたという[要出典]。

大隈重信 「身始末は宜かった。身体は彼の通の大兵肥満で、この節散髪した西ノ海にも譲らぬ。人格は世間で大西郷と呼ぶ程な堂々たる英雄であるが、さればとて着物などには普通に小薩張したものを着、汚れたものなどは着けぬ。勿論綺麗な物を着た訳ぢゃ無いが、といって決して弊?袍を着ては居らぬ。ただ自己の地位からみれば、御粗末な物だというだけで、おもに木綿物を用いて居った。それをダラシなく着こなして居たよ。まず相撲取りという可きだったろう」[115]

喫煙者であるが、酒は弱く下戸であったと伝わっている[要出典]。肥後直熊筆「西郷隆盛像」(黎明館蔵)
肖像

大久保利通ら維新の立役者の写真が多数残っている中、西郷は自分の写真はなく、明治天皇から要望された際も断っている[116][要ページ番号]。現在のところ西郷の写真は確認されていない[117]。理由は西郷が写真嫌いだからとも[116]、顔が知られる事による暗殺を恐れたからとも言われている。

死後に西郷の顔の肖像画は多数描かれているが、全ての肖像画及び銅像の基になったと言われる絵(エドアルド・キヨッソーネ作)は、比較的西郷に顔が似ていたといわれる実弟の西郷従道の顔の上半分、従弟大山巌の顔の下半分を合成して描き[116]、親戚関係者の考証を得て完成させたものである。自身は西郷との面識が一切無かったキヨッソーネだが、上司であった得能良介を通じて多くの薩摩人と知り合っており、得能の娘婿であった西郷従道とも親しくしていたため、西郷を知る人の意見が取り入れられた満足のいく肖像画になっているのではないかと言われている[118]

西郷菊次郎は「父は写真というものは唯の一度も撮ったことがありません。イヤ外の方と同列で撮ったというものがないのです。さアなぜ撮らなかったか分からない。強いて推測すれば、かかる微功だになき肖像を後世に遺す必要がないという謙遜から来た様にも思われる。嘗て在職中のことですが、畏きあたり(天皇)より写真を撮る様にとの御言葉もあったということです。併しこれもその儘になって終いました。今日家に伝えてありますのは、大分前のことですが、親属のものらが、父の肖像を得たいという希望がありました。やむを得ず私がその案を立てた。ソレは額は誰、眼や鼻は誰という様に、一々兄弟や、近親の顔の一部分宛ツギハギして、どうやら父の俤に似たものが出来た。ところがその時の印刷局長が得能良介でこれまた新属の一人ですが、丁度この印刷局にキヨソネというお雇い教師がありましたので、私の案をば同氏に送って描かせたのが、丈約二尺の洋服半身の鉛筆画です。これが今世の中に在る父の肖像画中、比較的正確のものです。この他にも父の知人の作ったものもあります。上野公園の銅像も、無論充分ではありません。私の案を立てた父の肖像画もこの点に就いては真を写しては居りません。上野公園に立ってある父の銅像の意匠に、なぜあんななりをさせたかということは、私は嘗て相談を受けたこともありませんから分かりませんが、頭から胴までは前にお談しをした私の案でキヨソネ氏の描いた肖像画に基づき、胴から下部は、父の用いた洋服のズボンを土台として組み上げたものだから、眼光を除くの外は先ず難がないものと云ってよろしかろう」と語っている[119][要文献特定詳細情報]。

生前に面識のあった板垣退助は、上野公園に建立された銅像に不満を持ち[120][要文献特定詳細情報]、洋画家の光永眠雷に指示して新たな肖像画を描かせ、二点が作られたが一点は大山厳田中光顕明治天皇の天覧を経て、西郷糸子に渡された。もう一点は西郷家から大山を経て宮内省に渡ったが、二点とも現在は行方不明である。しかし、1910年に日韓併合記念として写真版で印刷発行されており、現在岡山県立記録資料館が所蔵している[要出典]。

鹿児島郡武村(鹿児島市武町)の西郷屋敷の隣家に住んでいた肥後直熊[121]は、幼少のころ西郷に可愛がられ、「直坊」と愛称され、膝の上で遊んだという。この絵(直熊筆「西郷隆盛像」)は、昭和2年(1927年)の西郷没後50年祭の契機に、昔の思い出をもとに西郷を描いた。肥後直熊の絵は、真実の西郷に最もよく似ていると評価され、同種のものが石版刷りとなって広く頒布された[要出典]。

本多元介母 「翁の顔は世に行はるる肖像と能く似ているが、鼻が似てない。翁の鼻は立派な鼻ではなく、少し鷲鼻であった」[122]

なお、西郷が明治天皇や坂本龍馬や桂小五郎、勝海舟といった維新頃の人物と集団撮影したと称されている写真(通称・フルベッキ写真)が存在するが、西郷は当時すでに肥満しており、この写真で西郷とされている人物のように痩躯ではなかった。また、その他様々な点からこの写真はフルベッキ佐賀藩藩校致遠館」の学生らとともに撮った写真であることが証明されている[要出典]。


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