西郷隆盛
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同日、巡査たちとは別に、大久保が派遣した野村綱が県庁に自首した[注釈 31]。西郷は、その自白内容から、大久保も刺殺に同意していると考えるようになったらしい。

募兵、新兵教練が終わった13日、大隊編制が行われ、一番大隊指揮長に篠原国幹、二番大隊指揮長に村田新八、三番大隊指揮長に永山弥一郎、四番大隊指揮長に桐野利秋、五番大隊指揮長に池上四郎が選任され、桐野が総司令を兼ねることになった。淵辺群平は本営附護衛隊長となり、狙撃隊を率いて西郷を護衛することになった。別府は加治木で別に2大隊を組織してその指揮長になった[注釈 32]

翌14日、私学校本校横の練兵場[注釈 33]で西郷による正規大隊の閲兵式が行われた。15日、薩軍の一番大隊が鹿児島から先発し(西南戦争開始)、17日、西郷も鹿児島を出発し、加治木・人吉を経て熊本へ向かった。
熊本の戦い

2月20日、別府晋介の大隊が川尻に到着。熊本鎮台偵察隊と衝突し[91]、これを追って熊本へ進出した。21日、相次いで到着した薩軍の大隊は順次、熊本鎮台を包囲して戦った。22日、早朝から熊本城を総攻撃した[92]。昼過ぎ、西郷が世継宮に到着した。政府軍一部の植木進出を聞き、午後3時に村田三介・伊東直二の小隊が植木に派遣され、夕刻、伊東隊の岩切正九郎が乃木希典率いる第14連隊の軍旗を分捕った[93]。一方、総攻撃した熊本城は堅城で、この日の状況から簡単には陥ちないと見なされた。夜、本荘に本営を移し、ここでの軍議でもめているうちに、政府軍の正規旅団は本格的に南下し始めた。この軍議では一旦は篠原らの全軍攻城策に決したが、のちの再軍議で熊本城を長囲し、一部は小倉を電撃すべしと決し、翌23日に池上四郎が数箇小隊を率いて出発したが、南下してきた政府軍と田原・高瀬・植木などで衝突し、電撃作戦は失敗した[94]

これより、南下政府軍、また上陸してくると予想される政府軍、熊本鎮台に対処するために、熊本城攻囲を池上にまかせ、永山弥一郎に海岸線を抑えさせ、篠原国幹(六箇小隊)は田原に、村田新八・別府晋介(五箇小隊)は木留に、桐野利秋(三箇小隊)は山鹿に分かれ、政府軍を挟撃して高瀬を占領することにした。しかし、いずれも勝敗があり、戦線が膠着した。

3月1日から始まった田原をめぐる戦い(田原坂・吉次など)は、この戦争の分水嶺になった激戦で、篠原国幹ら勇猛の士が次々と戦死した。このような犠牲を払ってまで守っていた田原坂であったが、20日に、兵の交替の隙を衝かれ、政府軍に奪われた[95]。この戦いに敗れた原因は多々あるが、主なものでは、砲・小銃が旧式で、しかも不足、火薬・弾丸・砲弾の圧倒的な不足、食料などの輜重の不足があげられる[96]。これらは西南戦争を通じて薩軍が持っていた弱点でもある。こうして田原方面から引き上げ、その後部線を保守している間に、上陸した政府背面軍に敗れた永山弥一郎が御船で自焚・自刃し、4月8日には池上四郎が安政橋口の戦いで敗れて、政府背面軍と鎮台の連絡を許すと、薩軍は腹背に敵を受ける形になった[97]。そこで、この窮地を脱するために、14日、熊本城の包囲を解いて木山に退却した。この間、本営は本荘から3月16日に二本木、4月13日に木山、4月21日に矢部浜町と移され、西郷もほぼそれとともに移動したが、戦闘を直接に指揮しているわけでもないので、薩摩・大隅・日向の三州に蟠踞することを決めた4月15日の軍議に出席していたこと以外、目立った動向の記録はない。

薩軍は浜町で大隊を中隊に編制し直し、隊名を一新したのち、椎葉越えして、新たな根拠地と定めた人吉へ移動した[98]。4月27日、一日遅れで桐野利秋が江代に着くと、翌28日に軍議が開かれ、各隊の部署を定め、日を追って順次、各地に配備した。これ以来、人吉に本営を設け、ここを中心に政府軍と対峙していたが[99]、衆寡敵せず、徐々に政府軍に押され、人吉も危なくなった[100]。そこで本営を宮崎に移すことにした。西郷は池上四郎に護衛され、5月31日、桐野利秋が新たな根拠地としていた軍務所(もと宮崎支庁舎)に着いた。ここが新たな本営となった[101]。この軍務所では、桐野の指示で、薩軍の財政を立て直すための大量の軍票西郷札)がつくられた[102][103][104]
宮崎の戦い

人吉に残った村田新八は、6月17日、小林に拠り、振武隊、破竹隊、行進隊、佐土原隊の約1,000名を指揮し、1ヶ月近く政府軍と川内川を挟んで小戦を繰り返した。7月10日、政府軍が加久藤・飯野に全面攻撃を加えてきたので、支えようとしたが支えきれず、高原麓・野尻方面へ退却した。小林も11日に政府軍の手に落ちた。17日と21の両日、堀与八郎が延岡方面にいた薩兵約1,000名を率いて高原麓を奪い返すために政府軍と激戦をしたが、これも勝てず、庄内、谷頭へ退却した。24日、村田は都城で政府軍六箇旅団と激戦をしたが、兵力の差は如何ともしがたく、これも大敗して、宮崎へ退いた(都城の戦い)。

31日、桐野・村田らは諸軍を指揮して宮崎で戦ったが、再び敗れ、薩軍は広瀬・佐土原へ退いた(宮崎の戦い)。8月1日、薩軍が佐土原で敗れたので、政府軍は宮崎を占領した。宮崎から退却した西郷は、2日、延岡大貫村に着き、ここに9日まで滞在した。2日に高鍋が陥落し、3日から美々津の戦いが始まった。このとき、桐野利秋は平岩、村田新八は富高新町、池上四郎は延岡にいて諸軍を指揮したが、4日、5日ともに敗れた。6日、西郷は教書を出し、薩軍を勉励した。7日、池上の指示で火薬製作所と病院を熊田に移し、ここを本営とした。西郷は10日から本小路、無鹿、長井村笹首と移動し、14日に長井村可愛に到着すると、以後、ここに滞在した[105]。その間の12日、参軍・山縣有朋は政府軍の延岡攻撃を部署した。同日、桐野・村田・池上は長井村から来て延岡進撃を部署し、本道で指揮したが、別働第二旅団・第三旅団・第四旅団・新撰旅団・第一旅団に敗れたので、延岡を総退却し、和田峠に依った。

8月15日、和田峠を中心に布陣し、政府軍に対して西南戦争最後の大戦を挑んだ。早朝、西郷が初めて陣頭に立ち、自ら桐野、村田、池上、別府ら諸将を随えて和田峠頂上で指揮したが、大敗して延岡の回復はならず、長井村へ退いた。これを追って政府軍は長井包囲網をつくった。16日、西郷は解軍の令を出し、書類・陸軍大将の軍服を焼いた[106]。この後、負傷者や諸隊の降伏が相次いだ。残兵とともに、三田井まで脱出してから今後の方針を定めると決し、17日夜10時、長井村を発し、可愛岳(えのたけ)に登り、包囲網からの突破を試みた。突囲軍は精鋭300-500名で、前軍は河野主一郎と辺見十郎太、中軍は桐野と村田、後軍は中島健彦と貴島清が率い、池上と別府が約60名を率いて西郷隆盛を護衛した[105][注釈 34]。突囲が成功した後、宮崎・鹿児島の山岳部を踏破すること14日、鹿児島へ帰った。
城山決戦西郷隆盛の木版画の肖像画。長谷川貞信II作(1877年11月)南洲翁終焉之地の碑(鹿児島市城山町)「城山の戦い」も参照

9月1日、突囲した薩軍は鹿児島に入り、城山を占拠した。一時、薩軍は鹿児島城下の大半を制したが、上陸展開した政府軍が3日に城下の大半を制し、6日には城山包囲態勢を完成させた。19日、山野田一輔・河野主一郎が西郷の救命のためであることを隠し、挙兵の意を説くためと称して、軍使となって参軍・川村純義のもとに出向き、捕らえられた。22日、西郷は城山決死の檄を出した。23日、西郷は、山野田が持ち帰った川村からの返事を聞き、参軍・山縣有朋からの自決を勧める書簡を読んだが、返事を出さなかった。また、敵である陸軍の中にも西郷を慕う者は多く、城山総攻撃の前夜には、陸軍軍楽隊が城山に向けて葬送曲を演奏し、市民も聞き入ったという。現代になっても、自衛隊吹奏楽団が、同じ日時に葬送曲を同じ場所で演奏している[107]

9月24日、午前4時、政府軍が城山を総攻撃したとき、西郷と桐野利秋、桂久武、村田新八、池上四郎、別府晋介、辺見十郎太ら将士40余名は洞前に整列し、岩崎口に進撃した。まず国分寿介[注釈 35]が剣に伏して自刃した。桂久武が被弾して斃れる(たおれる)と、弾を受けて落命する者が続き、島津応吉久能邸門前で西郷も股と腹に被弾した。西郷は別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と言い、将士が跪いて見守る中、襟を正し、跪座し遙かに東に向かって拝礼しながら、別府に首を打たせる形で自害した[注釈 36]。介錯を命じられた別府は、涙ながらに「ごめんなったもんし(御免なっ給もんし=お許しください)」と叫んで西郷の首を刎ねたという。享年51(満49歳没)。

西郷の首はとられるのを恐れ、折田正助邸門前に埋められた[注釈 37]。西郷の死を見届けると、残余の将士は岩崎口に進撃を続け、私学校の一角にあった塁に籠もって戦ったのち、自刃、刺し違え、あるいは戦死した。

午前9時、城山の戦いが終わると大雨が降った。雨後、浄光明寺跡で山縣有朋と旅団長ら立ち会いのもとで検屍が行われた。西郷の遺体は毛布に包まれたのち、木櫃に入れられ、浄光明寺跡に埋葬された(現在の南洲神社の鳥居附近)。このときは仮埋葬であったために墓石ではなく木標が建てられた。木標の姓名は県令・岩村通俊が記した[108][要文献特定詳細情報]。明治12年(1879年)、浄光明寺跡の仮埋葬墓から南洲墓地のほぼ現在の位置に改葬された。また、西郷の首も戦闘終了後に発見され、検分ののちに手厚く葬られた[注釈 38][要文献特定詳細情報]。
死後西郷墓地

西郷は挙兵直後の明治10年(1877年)2月25日に「行在所達第四号」で官位を褫奪(ちだつ)され[109]、死後、賊軍の将として遇された。その後、西郷の人柄を愛した明治天皇の意向や黒田清隆らの努力があって明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法発布に伴う大赦で赦され、正三位を追贈された[8]。明治天皇は西郷の死を聞いた際にも「西郷を殺せとは言わなかった」と洩らしたとされるほど西郷のことを気に入っていたようである。戒名は、南州寺殿威徳隆盛大居士[要出典]。


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