凡例西郷 清員
時代戦国時代後期 - 安土桃山時代
生誕天文2年(1533年)[1][2][3]
死没文禄3年12月11日(1595年1月21日)[1][2][4]
改名吉員、清員[5]
別名新太郎、孫九郎、孫平[5]
戒名日栖[2]
墓所池上本門寺[2]
官位左衛門佐[注釈 1][2][3]
主君徳川家康
氏族三河西郷氏[6][3]
父母父:西郷正勝 母:菅沼定則の娘[5][7]
兄弟元正、清員、勝茂
西郷 清員(さいごう きよかず)は、戦国時代の武将。徳川家康の家臣。 三河国八名郡月ヶ瀬城主・西郷正勝の子として生まれる。永禄4年(1561年)西郷氏が今川氏と手切れして松平氏(徳川氏)に転じると清員は人質として岡崎城に送られ、松平元康(徳川家康)の側近くに仕える。同年9月、今川勢によって西郷領が攻撃されて父や兄・元正が戦死すると、清員は母方の従兄弟にあたる野田城主・菅沼定盈とともに西郷領の奪還を元康に要請した。元康はこの願いを受け入れて本多信俊・大須賀康胤
生涯
永禄7年(1564年)遠江国境に近い地域が要衝の地であるため徳川氏の直轄領となると、代替地として幡豆郡吉良・碧海郡川島・設楽郡作手・遠江引佐郡井伊谷など900貫文の知行を与えられている。また一宮砦後詰めでは菅沼定盈とともに従軍し、今川方の大泉助次郎を討ち取ったという。その後も吉田城攻め、田原城攻め、堀川城攻め、宇津山城攻め、掛川城攻めの戦いに従軍。永禄12年(1569年)額田郡河辺領を遠江榛原郡内700貫文に替えられる。元亀元年(1570年)姉川の戦いでは義兄・酒井忠次隊に属して戦功があった[9][10]。