この節の出典は、Wikipedia:信頼できる情報源に合致していないおそれがあります。そのガイドラインに合致しているか確認し、必要であれば改善して下さい。(2018年12月) 薩摩藩の西郷氏は肥後西郷氏の流れで、肥前西郷氏と同族であり、幕末維新に活躍した西郷隆盛・従道兄弟を世に出した家として知られている(隆盛は変名として、菊池姓を名乗ったこともある)。幕末の薩摩藩においては、御小姓与身分である下級藩士であった。この西郷氏は、室町初期に惣領家の菊池氏が没落すると、薩摩国に移住して島津家が九州をほぼ制圧した折に、臣従した。あるいは江戸時代の元禄年間に薩摩藩士になったとも伝わる。 明治維新後の1884年(明治17年)に従道は戊辰戦争の軍功で伯爵に叙され、1895年(明治28年)には日清戦争の軍功で侯爵に陞爵した。またこれとは別に西郷隆盛の息子西郷寅太郎は1902年(明治35年)に父の維新の功により侯爵に叙せられた[2]。 菊池則隆 なお、西郷九兵衛(沢田延音
日本の名字七千傑
⇒武家家伝
薩摩西郷氏
系譜
実線は実子、点線(縦)は養子。
西郷政隆
隆基
隆季
隆房奥松隆秀
(4代略)
基宗秀世西郷秀範
(18代略)
隆純
九兵衛
吉兵衛[薩摩 1]
覚左衛門
吉兵衛
覚左衛門隆充
吉兵衛隆盛大山綱昌
吉之助隆盛隆広従道隆雄琴鷹
寅太郎午次郎菊次郎隆準上村従義従徳小松従志
隆幸隆輝吉之助隆明隆秀隆泰準従吾古河従純黒木従達
吉太郎隆晄隆廣隆文従節
注釈^ 平瀬治右衛門の三男。
備考
その一方、上記の隆盛を出した家(仮に増永西郷家とする)とは別系統で、分家筋の西郷氏も存在したという。肥後国より薩摩藩に移住した増永西郷家の分家筋である。
西郷九兵衛が死去する元禄年間より前の、寛文9年春に島津綱貴が大田久知と河野通古に作らせた島津氏家臣の系譜集「諸家大概」(現在は鹿児島大学付属図書館に複写本あり、原本は行方知らず)の西郷氏の記述に西郷九郎秀範がでる。この西郷九郎秀範という人物は「さつまの姓氏」では増永西郷家の分家の奥松氏より出るとしている。奥松氏と西郷九朗秀範については以下の通りである。 この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。
増永西郷家の三代目当主西郷隆季(西郷隆盛の29代前の先祖)の子、隆秀が肥後国菊池郡奥松城(熊本県のどこかは不明)を築城し奥松氏を称する。
奥松隆季の5世孫秀世の弟である秀範、西郷氏に復し薩摩に落去。
「諸家大概」では、西郷隆季を建武年間の人として紹介。なお、この西郷隆季の甥、奥松貞秀が菊池武重と不和になり、康安元年(1361年)10月、子の経秀とともに肥後を落去して日向国諸県郡小林郷真方村に移住。経秀は西郷氏に復した。経秀の9世孫、始羅郡帖佐郷(現在の鹿児島県姶良市帖佐)に移住した。
別系統の西郷氏
三河西郷氏