西郷従道
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文部卿(第3代)、陸軍卿(第3代)、農商務卿(第2代)、元老海軍大臣(初・4代)、内務大臣(第2・14代)、貴族院議員を歴任した。
経歴
青年期

薩摩国鹿児島城加治屋町山之口馬場(下加治屋町方限、現在の鹿児島市加治屋町)に、西郷吉兵衛の三男として生まれる(幼名竜助)。剣術薬丸兼義薬丸自顕流を、兵学伊地知正治に合伝流を学んだ。有村俊斎の推薦で薩摩藩主・島津斉彬に出仕し、茶坊主となって竜庵とする。

文久元年(1861年9月30日還俗し、本名を隆興、通称を信吾(慎吾)と改名。斉彬を信奉する精忠組に加入し、尊王攘夷運動に身を投じる。

文久2年(1862年)、勤王倒幕のために集結した精忠組内の有馬新七らの一党に参加するも、寺田屋事件で藩から弾圧を受け、従道は年少のため帰藩謹慎処分となる。文久3年(1863年)、薩英戦争が起こると謹慎も解け、西瓜売りを装った決死隊に志願。戊辰戦争では、鳥羽・伏見の戦いで貫通銃創の重傷を負うも、各地を転戦した。
維新後西郷従道、1876年西郷 従道、海軍大臣(1880年代)フェリーチェ・ベアト(前列左)と。1882年

明治維新後、太政官に名前を登録する際、「隆道」をリュウドウと口頭で登録しようとしたところ、訛っていたため役人に「ジュウドウ」と聞き取られ、「従道」と記録されてしまった。しかし特に気にせず、「従道」のままで通した[5]。「従道」はであり、日常使用するのは通称である「信吾」であった。

1869年明治2年)、山縣有朋と共に渡欧し軍制を調査。1870年明治3年)7月晦日、横浜に帰着。同年8月22日に兵部権大丞に任じられ、正六位に叙せられる。

1871年明治4年)7月、陸軍少将となる。

1873年明治6年)には兄の隆盛が征韓論をめぐり下野する(明治六年政変)。薩摩藩出身者の多くが従うが、従道は政府に留まった。

1874年(明治7年)に陸軍中将となり、同年の台湾出兵では蕃地事務都督として軍勢を指揮する。

隆盛が1877年(明治10年)に西南戦争を起こした際、従道は隆盛に加担せず、陸軍卿山縣有朋が政府軍を率いて九州へ出征したため、陸軍卿代理に就任し政府の留守を守った。以後は政府内で薩摩閥の重鎮として君臨した。西南戦争が終わった直後には近衛都督になり、大久保利通暗殺(紀尾井坂の変)直後の1878年(明治11年)には参議となり、同年末には陸軍卿になった。

明治十四年の政変では、伊藤博文とともに大隈重信邸を訪ね、大隈に辞表提出を促した。

1882年(明治15年)1月11日、黒田清隆開拓使の長官を辞し、参議・農商務卿兼務のまま黒田の後任となり、同年2月8日に開拓使が廃止されるまで短期間ながら開拓長官を務めた。

1884年(明治17年)の華族令制定に伴い、維新時の偉功によって伯爵を授けられる。

甲申政変後の天津条約 (1885年4月)を結ぶ際には、伊藤博文らとともに、清国へ渡った。

内閣制度発足で初代海軍大臣に任命され、山本権兵衛海軍省官房主事に抜擢して大いに腕を振るわせて、日本海軍日清日露の戦勝に導いた。

西郷は従兄大山巌と同じく、細かい事務は部下に任せてほとんど口を出さず、失敗の責任は自らが取るという考えを持っており度量が大きかった。軍政能力に長けた山本が、その手腕をいかんなく発揮できたのは、西郷自身の懐の大きい性格のお陰だとも言われている。井上馨から海軍拡張案のことで尋ねられた際、「実はわしもわからん。部下の山本ちゅうのがわかっとるから、そいつを呼んで説明させよう」と言い、井上は山本の説明を受け納得したというエピソードがある。西郷隆盛や大山巌と同じく鷹揚で懐の深い人物であったとされるが、内務大臣在職中に起こった大津事件に際しては犯人の津田三蔵死刑を強硬に主張し、大審院長の児島惟謙を恫喝するなど大変な圧力をかけた。これは津田を死刑にしなかった場合必ずロシア帝国による日本本土攻撃を招き、その結果日本の敗北・滅亡となる事を危惧した西郷の強い憂国ゆえの勇み足であったといわれている。

1892年(明治25年)には元老として枢密顧問官に任じられる。同年、品川弥二郎とともに国民協会を設立。

1894年(明治27年)に海軍大将となり、1895年(明治28年)8月5日には侯爵に陞爵(しょうしゃく)し、貴族院侯爵議員に就任した[6]

1898年(明治31年)に海軍軍人として初めて元帥の称号を受ける。内閣総理大臣候補に再三推されたが、兄・隆盛の逆賊行為を理由に断り続けた(大山巌も同様)。

1902年(明治35年)、胃癌のため目黒の自邸で死去享年60(59歳没)[7]。当初青山霊園に葬られたが、後に多磨霊園に改葬。
栄典
位階


明治4年

7月28日 - 従五位[8]

12月12日 - 正五位[8]


1873年(明治6年)11月15日 - 従四位[8][9]

1879年(明治12年)12月25日 - 正四位[8]

1884年(明治17年)12月27日 - 従三位[8]

1886年(明治19年)10月19日 - 従二位[8][10]

1895年(明治28年)12月20日 - 正二位[11]


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