西部邁
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これに抗議して同年3月、東京大学を辞任[要出典]。西部曰く「東大の馬鹿騒ぎ」。西部支持に回ったのは、蓮實重彦佐藤誠三郎公文俊平村上泰亮村上陽一郎芳賀徹平川祐弘鳥海靖舛添要一松原隆一郎大森彌などである。逆に反対した教官は、船曳建夫谷嶋喬四郎折原浩見田宗介
東大辞職後

東大辞職後は評論活動を続けるとともに鈴鹿国際大学客員教授、2009年(平成21年)3月まで秀明大学教授・学頭を歴任。テレビ朝日系列の討論番組、「朝まで生テレビ!」に出演し[14]、保守派論客として知られた[14]1994年(平成6年)から2005年(平成17年)3月まで、真正保守思想を標榜する言論月刊誌発言者』を刊行していたが、財政上の理由で廃刊。後継の隔月刊誌『表現者』の顧問を務めた。

新しい歴史教科書をつくる会に参加し理事の任を引き受けたものの、当初から会の運動とは一定の距離を置いており理事会などへは出席しなかった[15]

2001年(平成13年)8月、船橋市立西図書館のある司書が同館所蔵の西部らの多数の著書を廃棄基準に該当しないにもかかわらず除籍・廃棄した(船橋市西図書館蔵書破棄事件)。

2002年(平成14年)、小林よしのりとともに「つくる会」を脱退。同年、西部は東京西麻布の裏通りにある土地の所有者となり、イタリアンレストラン「ゼフィーロ」という店名で息子西部一明をオーナー兼支配人として経営させた[16]。同店は2007年(平成19年)4月に営業終了。

雑誌『WiLL』の2011年(平成23年)4月号では大相撲の八百長を擁護した[17]

2013年(平成25年)3月1日、佐伯啓思西田昌司富岡幸一郎との座談会で「自分の咽頭部にができていると最近知った」と述べた[18]。同年4月22日、首相公邸内閣総理大臣安倍晋三、参議院議員の西田昌司、評論家の西村幸祐と会食をした[19]

2014年(平成26年)3月17日、妻が死去[20][21]。のちに西部の息子は「父の文章の大部分は母あってのものだと思います。母親の意見とかフィードバックが父の文章にかなりの程度反映されていました」[22]と述べた。

2017年(平成29年)11月、『表現者』の顧問を退き、執筆活動から引退。西部の執筆活動の実務を担当していた西部の娘も引退した。『表現者』は2018年1月号(2017年12月発売)をもって第一期を終了。2018年3月号(2018年2月発売)より第二期『表現者』として『表現者クライテリオン』に改題・新創刊するとともに編集体制を変更。藤井聡内閣官房参与京都大学大学院教授が新編集長に就任した[23]
自殺の準備

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西部は、50代の時から自分の生き方の結末を考えていた。55歳の頃には自死への構えがおおよそ定まり、2014年に妻と死別して以降は、更にその決意を固めていった。以降は、息子にも自殺を口にするようになり、電話で息子に「お父さんは自殺をすることに決めた」と告げた[24]。健康面では、背中に持病を抱えていた事から、激しい痛みに襲われることもあり[25]、皮膚炎や神経痛に悩まされており[24]、重度の頚椎症性脊髄症のため、細かな作業や重量のある物を持つことができず、執筆活動が困難になっていた[26][27]。自殺するまでの数年、親しい人には「死にたい」と漏らしていた。周囲に「ウソじゃないぞ。俺は本当に死ぬつもりなんだぞ」とも語っていた。また娘や息子に迷惑がかからないように人生を終えるといつも言っていた。自殺するまでの数年、木村三浩一水会代表)に対しては「自分の意思もわからない状態で看取られるのは耐えられない」「もうそろそろ限界だ」と言っていた。著書などでは「自然死といわれるものの実態は『病院死』にすぎない」「生の最期を他人に命令されたりいじり回されたくない」「死に方は生き方の総仕上げだ」と記し、自ら命を絶つ「自裁死」の意思があることを述べていた[28][29][30][31][32][33][34][35][36]


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