西谷墳墓群
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この土器のなかには吉備の特殊器台・特殊壺や北近畿・北陸地方の土器に似ているものが多い[15]。墓穴の周囲に4箇所の柱穴が検出された。これは祭事のための一時的な施設であった可能性が指摘されている[5]。1メートル以上の盛土のうえ、斜面に貼石を施し、墳頂に第1主体と第4主体の遺構表示をおこなって、築造当時の姿に整形されている[14]
4号墓
弥生時代終末期古段階(2世紀末ごろ)の四隅突出型墳丘墓と考えられるが、主体部の調査をしていないため時期の確定は難しい[10]。規模は東西34メートル×南北27メートル[9]。この地点で出土した土器が「下来原西谷丘陵出土土器」[1]として報告されたため、旧来「西谷丘陵遺跡」として知られた[4]。地元の土器のほかに吉備の特殊器台・特殊壺、山口県西部の土器が出土している[10]。墳丘構造が2号墓や3号墓に比べて雑な印象を受けるものの、2号墓・3号墓と同じくらいの被葬者が埋葬されていると考えられるという[14]。埋葬施設は調査されていない。20センチメートル程度の盛土のうえに張芝で保護してある[14]。4号墓に20センチメートルしか盛土をしなかったのに対し3号墓に大量の盛土をおこなったために、本来4号墓の墳頂のほうが高かったのが現状では逆転している[2]
6号墓
弥生時代終末期新段階(3世紀前半)の四隅突出型墳丘墓と考えられるが、時期の確定は難しい[10]。墳丘の大半が失われており、北側・東側に一部が残る。規模は不明だが、東西約17メートル×南北8メートル以上、高さ約2メートルと推測されている[注釈 8][4][9]西側・南側の土の流出を防ぐための保護が施されている[14]
9号墓
弥生時代終末期新段階(3世紀前半)の四隅突出型墳丘墓だが、編年に有効な壺形土器の口縁部などが出土しておらず時期の確定は難しい[10]。他の四隅突出型墳丘墓とは離れた墳丘に築造されている。規模は東西42メートル×南北35メートル[注釈 9]、高さ5メートルで、この墳墓群中最大規模の四隅突出型墳丘墓である。墳裾の配石構造が3段の敷石・立石で構成されており[注釈 10]、これは西谷9号墓に唯一見られる特徴である。墳丘規模や配石構造から、特別な被葬者を葬ったと考えられる。[10]1962年以降、墳頂に三谷神社が鎮座している。2004年から2005年にかけて、墳丘崖面の保護工事がおこなわれている[14]
その他の墳丘墓
5号墓
遺存状態が悪く、明確なことは分からない。従来は地形から前方後方形墳墓と推定されていた
[4][3]が、近年では「長方形」[9]、あるいは「方形または楕円形」[14]と考えられている。規模は22メートル前後×約17メートル、高さ2メートル前後。配石はない。遺物も検出されておらず、築造年代は不明[9]。隣接して、番外3号墓と呼ばれる時期不明[9]の小規模な石棺墓が存在する。現在は、墳形の復元はされていないものの盛土と張芝で保護されている[14][注釈 11]
7号墳
古墳時代前期(4世紀)の方墳であるが、弥生時代の伝統を引き継いでおり特異な墳墓として注目される。溝で区画した基壇の上に長方形墳が西よりに築造されたと推定されている[注釈 12]。規模は東西約22メートル×南北17.5メートル、高さ1-2メートル。埋葬施設は2基ある。主体部の直上に土器を集積している点、標石をおく点などは弥生時代の四隅突出型墳丘墓にも共通する葬送儀礼・後片付けの痕跡である。さらに、基壇の2隅(北西・南西)に溝で区画された突出部が築造されていることも弥生時代以来の要素である[注釈 13]。一方で埋葬施設は刳抜木棺であり、これは古墳時代の新たな要素といえる[9][10][16]。7号墳裾に番外5号墓と呼ばれる時期不明[9]の石棺墓が存在する。
8号墳(墓)
墳形不明の墳墓であるが、四隅突出型墳丘墓の可能性もある。1972年に宅地造成工事により調査がおこなわれることなく壊滅した。推定規模は31メートル×31メートル、高さ2メートル以上とかなり大形である。造成工事に携わった人によると、赤色顔料と細砂が判別されたという[4]
10号墳
時期不明の方墳[4][10]。規模は9メートル×約10メートル。盛土で整形する[10]
11号墳
古墳時代中期中葉ごろ(5世紀中ごろ)の円墳[10][注釈 14]。規模は径約18メートル。盛土で整形する[10]。小形の円墳ながら円筒埴輪が出土しており注目される。出雲平野において古墳時代中期中葉の円筒埴輪が発掘調査で出土した初例である。
12号墳
方形墓[4]。一部原形を損なうが、現状で一辺約10メートル程度の規模である[3]。発掘調査はおこなわれていない。
13号墳
方形墓[3][注釈 15]。規模は一辺約10メートルをはかる[3]。他の墳墓が丘陵の尾根上に築かれるのに対し、13号墳は斜面中腹に築かれている[3]。発掘調査はおこなわれていない。
14号墳
円形墓[4]。原形を損ねているが、本来は径約12メートル程度の規模と思われる[10]。発掘調査はおこなわれていない。
15号墳
古墳時代中期(6世紀初め)の方墳[7]。規模は一辺約15メートル、高さ0.9メートル。すでに消滅している。埋葬施設は木棺直葬と推定される。遺物は刀子1点と須恵器土師器片が出土している。[7]
16号墳
5世紀後半から6世紀初頭のものと思われる北東部がややいびつな円墳[7]。規模は径11メートル、高さ0.5-1メートル。すでに消滅している。埋葬施設は石棺で、盗掘を受けていた。遺物は鉄製の鍬・鋤先、鉄斧、鉄剣2点のみである。[7]
17号墳
8メートル以上、高さ70センチメートル以上の円形もしくは方形の墳丘[9]、「方墳の可能性が高い」[10]などと推定されてはいるものの削平されていて不明な部分が多い。3号墓の南隣にある。墳裾に弥生時代後期後葉?終末期(3世紀前半)の土壙1基が存在する[9][10]
18号墳
古墳時代前期末?中期初頭ごろ(4世紀末ごろ)の方墳[10]。規模は約9メートル、高さ約1メートルと考えられる[10]
19号墳
方墳。時期は不明ながら、18号墳より新しいと考えられる[10]。規模は約13メートル四方、高さ約2メートル。
20号墳
盛土が確認されているが、確実に墳墓と関係する遺構は検出されていない[10]
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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