西表島
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しかし、1771年八重山地震(明和の大津波)やマラリアの流行のために人口が激減して、古見を含む多くの集落が衰微し、廃村に至ったものもあった[18][19]。また、琉球王朝時代には、18世紀前半の蔡温の施政期を中心に、八重山地方におけるマラリアの実情を解さない琉球王府により、幾度も波照間島黒島新城島からの強制移民が行なわれたが、ほとんど失敗している[20]

低島で水稲栽培に適さない竹富島では、人頭税期(1637年 - 1902年)から本土復帰頃まで、稲作が可能な西表島まで船で通って水田を作り、マラリアのない由布島に田小屋を構えて寝泊まりする通耕が行われた[19][21]

1886年(明治19年)、三井物産会社は炭鉱採掘の許可を受け、坑夫200余名に採掘させたが、3年間で100余名の死者を出し、残り過半もマラリアに罹患したため、1889年(明治22年)に事業を休止した。1893年(明治26年)笹森儀助が西表島を探検する。

その後も開発は進まず、人口希薄の状態が続いた(1919年(大正8年)頃の総人口2,889人)[22]大正末期から昭和初期にかけて、北部内離地区に西表炭坑が開かれ、一時はかなり発展したが、第二次世界大戦中に次第に衰退した。

第二次世界大戦末期に、波照間島等の住民が強制的に西表島への集団疎開を命じられ、多くの住民がマラリアにかかり死亡した。これを戦争マラリアとよんでいる。

以上のようにマラリアの蔓延等により開発が遅れたことで、結果として豊かな自然が残ることになった。なお、八重山列島のマラリアは1961年に根絶された[20]
地域

島内に存在する地域と集落廃村を含む)は以下の通りである。かつては集落ごとに小字が存在したが現在は廃止されており、番地表示が実施されている。
東部地区豊原公民館

南風見(はいみ)

豊原

大原 - 八重山では珍しい日本式の大原神社がある

仲間村(明治時代に廃村)

南風見村(明治時代に廃村)


南風見仲(はいみなか)

大富


古見(こみ)

古見

美原

由布(由布島、1971年廃村)[注 4]


高那(たかな)

西部地区

上原(うえはら) - 鳩離島アトゥク島を含む。

船浦

上原

中野

住吉

浦内

稲葉(1969年に廃村)



西表(いりおもて) - 内離島外離島を含む。

干立[注 5]

祖納

白浜

船浮[注 6]

成屋(内離島、1920年に廃村)


崎山(さきやま) - 仲の神島を含む。

網取1971年に廃村、現在は東海大学の研究施設関係者のみが常駐)

崎山(1948年に廃村)

鹿川(1901年に廃村)




南風見にある南風見田浜

南風見の忘勿石前の海岸

アトゥク島

内離島・外離島

船浮

産業(左)南風見のサトウキビ畑(西表糖業前)
(右)西表糖業

主要な産業は、サトウキビパイナップル栽培などの第1次産業農業)と観光関連の宿泊施設飲食店などの第3次産業である[23]
観光離島へのシーカヤッキング(白浜港)

西表島は、ミシュラン・グリーンガイドジャポンで二つ星の評価を得ている。浦内川仲間川のほか、数多くの河川でのカヤッキング、海洋でのシュノーケリングスキューバダイビングなどのアウトドアアクティビティが盛んで、多くの観光業者がツアーを企画している。


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